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三か村縁組みご法度

scan-3室津と北野山(現在奈良市)と、桐山は、昔から大変仲の良い村でした。地続きで家々の付き合いも多く、氏神は桐山に社(郷社)を設け、祭りには三か村から桐山の宮にお渡りをして来たのでした。
ところが、いつのことか、お宮に備えつけてあった湯釜のことから争いが起き、それから郷社を解消して、争いの原因となった湯釜を、布目の大川に投げ込んでしまいました。
昔のことですから、どんな原因だったのかわかりませんが、祭礼の時、渡り衆を清める神聖な祭器である湯釜を、無きものにするほどですから、大変な紛争だったのでしょう。
湯釜を投げ込んだ川はたちまち変じて、大きな渦巻く淵となったというのです。これが釜淵の名の起こりです。

一説には、当時の祭神、九頭大明神の黄金の鍋つかみがあって、そのことから三か村の争いが起こったとも言われています。
今、桐山の神社には湯釜があり、永正十一年(一五一四)の銘が入っていますが、紛争の時のものであるかどうかはわかりません。

湯釜紛争があってから、お上(藩主)は、二度とこんな紛争が起こらぬよう「三か村縁組を禁ずる(縁組みご法度)」という厳しい禁令を敷きました。封建村落取り締まりの最後の手段だったとみられます。
これも氏神の神意によるものとか、破るとたたりがあるとか言われ、そのお仕置きは「縁を切る」とか「二度と敷居をまたいではいけない」とか、非常にきついものでした。

三か村では、それぞれ別に戸隠神社(手力男命)を造り、祭礼も神役も同じように行うようになりました。長い年月、縁が切れると、村同士は互いに疎遠になり、付き合いも少なくなりました。何回か復縁を話し合ったのですが、合意に達しなかったようです。

明治以降はそのご法度もなくなり、縁組みも復活して、幸せな家庭生活が行われるようになりました。
現在、老人たちも、室津、松尾、桐山で「三寿会」を結成し、交際を広める良き時代となりましたが、考えてみると、実に不幸な時代を経て来たのでした。

恋の淵(筏のたまりの淵)

大きい名張川と笠間川の合流点、平井亭のうしろの深い淵。あの青々とした深みに悲しい話が今も残っています。

scan川沿いにあった昔の道は、名張のまちから木津へ、そこから北の京都へ通じる道でした。
昔、名張の青年が京都の都へ仕えることになりました。彼には相愛の彼女がいました。いよいよ都へ出発する日が来ました。青年を途中まで送って、二人はここまで来ました。青年は「もう貴方は名張へお帰り。私は一人で行きます」と申したのですが、彼女は突然、彼に身を寄せて来ました。
「いっそこのまま淵へ・・・・・・」と、二人はこの深みに入水したのです。この淵は「恋の淵」と言い伝えられています。

この合流点はまた、東大寺建立の時代、上流の青葉山(板蠅ノ杣という寺領)の太い木を伐って笠間川を流し、この川原で筏に組み、名張川を流して木津で陸揚げし、奈良へ運んだようです。恋の淵はまた、筏のたまり場でした。

筏流しは大正の末まで続いていたようです。若い男女の悲恋と筏流し、この川辺の淵にまつわるお話です。

平成25年1月号 Vol.556

目次 ページ
新年のあいさつ 2 2013.1
消防団出初式ほか 3
議会だよりほか 4〜8
今月の情報ほか 9〜12
山添の文化財ほか 13
山添の食卓 14
川柳・俳句 ほか 15〜16

平成24年12月号 Vol.555

目次 ページ
節電・節約お願いします ほか 2〜4 2012.12
みんなの広場 7
今月の情報ほか 8〜11
山添の食卓 12
川柳・俳句ほか 13〜14

京原の都

寒さがやわらいでやっと春らしくなったある日のこと、お天子様があちこちの村々を回られたあげく、ひょっこりと毛原の里へお出でになりました。

kiyouharanomiyakoこの里は、蓮の花びらのような形をした山々に取り囲まれていて、なんとなく落ち着いついた感じがします。また、里の真ん中を西から東へと一筋のきれいな川が流れており、その北側には家々がきちんと南向きに立ち並んでいます。
一方、川の南には平地があって、そこには早くも麦が青々と伸び、菜の花が咲きみだれ、かわいい小鳥のさえずりさえ聞こえてきます。まったく春の初めとも思えないほどの暖かな日差しを一ぱい浴びて、人々は楽しそうに仕事に励んでいました。

しばらく立ちどまって、こののどかな景色をご覧になっていた天子様は「まあ、なんという平和で住み心地のよさそうな所だろう。その上、都を造るのに一番かっこうのよい姿になっているではないか。そうだ、わしはここを都ときめて住むことにしよう」とおっしゃいました。お天子様をお迎えした村人たちは、「ほんとうにありがたいこっちゃ」とたいへん喜んで、都造りに力を合わせました。

そんなわけで、見る見るうちにりっぱなご殿やお役所ができましたし、でっかいお寺も建てられました。また、飲み水がいちばん大事だというので、深い井戸も掘られましたが、そこからは顔が映るほどのきれいな水がこんこんと湧きました。『お天子様の御井や』と言うので、たちまち世間の評判になりました。そのうち、国ぐにから大ぜいの人たちがあつまってきて、すっかり都が整いました。静かな里に住み慣れていた人びとは、咲く花の匂うような栄える村の姿を見て、生きる幸せを存分に味わったことは言うまでもありません。それから、だれ言うともなく、毛原を京原と呼ぶようになったのです。

こうして平和な日々が何年も続きましたが、ある日のこと、お天子様がお亡くなりになりました。
村人たちは悲しみに包まれながら、天子様が朝夕大へん愛しておられた茶臼山へ、その亡きがらを葬ったのでした。
それからは、はなやかだった京原の都も夢のように消えて、また元の静かな毛原の里にもどったと、村では伝えられています。

(付記)

本文の『天子の御井』は、後世「山辺の御井」として万葉の歌に詠まれ、脚光を浴びることになったとも伝えられています。

平成24年11月号 Vol.554

目次 ページ
みんなの広場 2〜4 2012.11
今月の情報ほか 5〜10
山添の食卓 11
川柳・俳句 ほか 12〜13
山添ふれあいまつり2012 14

庄田さんの話

森田の家に伝わる話です。

天正のころ(1573~)、村の後の峰の上に庄田さんという侍が住んでいました。その子の庄田新八良藤原千代松は、小さい時から学問が好きで、昼も夜も本を読んでいました。北野の天神社や神野寺へもお参りして、勉強を積みました。武芸にも熱心で、馬に乗って柳生道場にも通い、技を磨きました。

syoudasannohanasiある秋のことです。大夕立があって、庭に干してあった籾がすっかり流されてしまいました。家の中で一心に本を読んでいた新八良は大雨に気づかず、籾の片付けを忘れていたのです。
野良から帰ったおとうさんは、怒って新八良の大切な本をみんな燃やしてしまいました。本は黒い火のかたまりとなって空にのぼり、西へ西へと飛んで、奈良の谷間に落ちました。それからそこを「火落ち谷」と呼ぶようになりました。

その後新八良は家出をしたのですが、村を出る時、村びとに刀とふとんをあずけ「わしが帰ってこなかったら森の八幡さんに祀ってくれ」と言い残したそうです。それから新八良の行方はわからないままです。柳生や方々で武芸にはげみ、立派な武士になったとも言われています。

森田の裏山に八幡さんの祠があります。毎年十月十五日を命日として、おまつりをしています。森田の家には「新八良千代松のうばなり」という天正時代の位牌がありますし、峰には「庄田屋敷」という畑や「馬洗いたんぼ」、「馬駆け場」があり、庄田さんが作った道しるべも残っています。

平成24年10月号 Vol.553

目次 ページ
決算報告ほか 2〜5 2012.10
議会だよりほか 6〜8
耐震診断 9
山添村職員募集 10
山添村のスポーツの秋 11
祝長寿 12
みんなの広場 13
今月の情報ほか 14〜17
山添の食卓 18
川柳・俳句 ほか 19〜20

黄金塚

中之庄の八幡神社境内の上、俗称″古屋敷〟と呼ばれる地に黄金塚があります。

koganedukaいつごろ造られ、なにの塚であったのかなどは、一切わかっていません。今は荒れ果てて、村人からは忘れ去られようとしています。ところがここに伝わる伝説として「毎年元旦の晨(朝)、この塚の上で金色の鶏が東の空高く鳴く」と伝えられています。
そしてこの声を聞いたものは、家内安全・無病息災・五穀豊穣で長者になると言われています。ところが残念なことに、未だに、この一番鶏の鳴く声を聞いた人は一人もいません。

むらの新しい年が、黄金塚の上の金の鶏の声であけていったという発想は、まことにめでたくて心あたたまるものがあります。

元旦の朝に金の鶏が鳴くという伝説のあるところは、なんと大和には二十数例もあるようです。
郷土史家、中川明氏によりますと、これら金の鶏が鳴くという所は、二~三の例外はありますがおおむねは古墳の上ということです。