カテゴリー別アーカイブ: 村の語りべ

小さな民話⑤

【天狗山のてんぐ】

毛原と勝原、切幡の境する所に天狗山がある。毛原の背後で一番高く、頂上には大きい岩石があって、昔から天狗が住んでいると言われてきた。
子どもが親の言うことを聞かなかった時、「そんな事しとったら天狗山のてんぐさんがやって来て、山へ連れていかれるぞ。それ聞こえるやろ。て
んぐさんが太鼓をたたいている音や。」その時、ほんとうに太鼓のたたくような音がしたので、ますますこわくなって、すっかりおとなしいよい子
になるのである。
また、昔から「風」はてんぐの仕業であるとされてきた。子どもたちが凧揚げの時、風がなかったらこう叫んだ。「てんぐさん、てんぐさん、風
吹いておくれ、余ったら返そ。」そうすると不思議に風が出てきて、凧揚げが楽しまれたものである。てんぐは不思議な力の持ち主だったのである。

【天狗山のてんぐさん】
葛尾の西には高塚山が、北には天狗山がそびえる。ここにはてんぐさんがいて、神野山のてんぐや、茶臼山のてんぐと争ったと伝えられる。
※天狗山は片平、遅瀬にもあり、それぞれの天狗伝承がある。
里うたに「てんぐさん、てんぐさん、風吹いておくれ。余ったらかえそ」というのがある。

【天狗杉と榧の木】

神野山の中腹に天狗杉があって、天狗さんが住んでいる。助命村宝蔵寺境内には榧の大木があった。天狗さんは退屈になると助命の榧の木に飛んで
来て、寺の僧とお話しされた。その時には天狗さんが神野寺のお坊さんに「今は助命の榧の木に来ているから安心せよ」と霊感で伝えられたそうである。
助命の榧の木は伐られて今はない。天狗杉は次第に大きく茂り、天狗さんはその枝に宿って村内の安泰を見守っておられるという。

小さな民話④

【鬼ヶ塚とお宮さん】

下津の家並みを過ぎた所から、遅瀬に向かう峠までをオニガツカと言う。その下の川にはオニ岩と言う巨石がある。下津の氏神は吉備津神社であるが、祭神吉備津彦命は古い昔、四道将軍の一人として吉備の国(岡山県)を攻め、吉備冠者「ウラ」と激しい戦いの上征服された。このことが桃太郎伝説となるが、岡山の吉備津神社と同じ祭神の上、オニガツカやオニ岩など同じ名がつけられていておもしろい。近くにはおばあさんが苧をつむいでいたと言う苧紡ぎ岩もある。同神社には古くから太鼓が奉納されていて、村に異変がある時は真夜中に太鼓の音が響くと言われている。

【烏ヶ淵の石地蔵】

桐山の「烏ヶ淵」の中に大きな岩があって、そこに石地蔵を切り付けてある。そのいわれと言うのは、豊臣秀吉が大阪城を築くとき、城の石垣に全国から巨岩、大石を寄せ集めた。この時、石地蔵は除くという但し書きがあった。烏ヶ淵の地蔵さんはこの時彫ったもので、大石を大阪まで運ぶ労役を免がれるためであったと言われる。

小さな民話③

【地獄谷の鼻釣り】

毛原の東出と中出の間に「地獄谷」と言う深い谷がある。昔は道がせまく、地形に沿ってつけられていたので、この谷を越えるには、どうしても一旦は谷底まで下らなければならなかった。
村の子どもたちは、日の暮れるのも忘れて遊ぶのでこの谷を越える時は真っ暗になっていた。その戒めだろうか、親たちは「あの谷には恐ろしい鼻釣りがおって、通る人の鼻をカギで引っかけるんや。暗くなるまでに早よう帰らなあかん。」とおどしたものである。それで子どもたちはそれを信じて、谷を越える時は、昼でもこわごわ通ったのである。

【神野寺のお坊さん】

神野寺のお坊さんが夜、囲炉裏にあたっておられた。「どん」と音がして、天狗さんが入って来て、囲炉裏の向こう側に座った。二人共無言で朝まで対座した。夜明けとともに天狗さんが去ってしばらく、どすんと大きな音がした。お坊さんが外に出て見ると、柴、割木が山のように積まれてあった。天狗のお礼返しやったと言う。
神野寺のお坊さんは筑紫(福岡県)の国から来ておられた。ツクツクホーシが鳴いたり、つくしが生えると、里心が出て帰りとうなるので、ツクツクホーシが鳴かんように、つくしが生えんように村の人は心配したと言う。だから神野山では、今でもツクツクホーシは鳴かんし、つくしは生えんそうや。

小さな民話②

【松尾の障子口】

室津へ出る坂の上を障子口と言う。ここにきつねが住んでいて、障子を立てかけたように見せたので、障子口と言う地名が起こった。

【四ツ辻狐】

室津から大保へ出る笠置道。丹生、北野山から水間へ出る奈良道の交差する所を四ツ辻と呼んでいる。
昔、北野山の馬子が炭を奈良へ運んだ帰り道、四ツ辻にさしかかると、突然美女があらわれて、馬に乗せてくれとたのんだ。馬子は馬の背に美女を縛りつけてわが家へ戻ったが、綱を解くと「ありがとう」と言ったまま姿を消した。このきつねは雌で、お糸ギツネと言う名前までついていたそうな。

【ネコ坂】

中峰山、天王参りの参道、一の鳥居を過ぎた松並木の坂道をネコ坂と言う。一名「ナミキ」とも言われるこの道、天王参りの時、「ここでころんだらネコになるから気をつけて」と親から言われてきた。どんないわれかはわからないが、今もってネコになった人はいない。

小さな民話①

【春日神社の宝刀】

昔、奈良の方から身分の高い武士が来て、祓戸橋から転落した。ふしぎに何ひとつけがをしなかった。これはこの神社のお陰と、腰のひと振りの刀を奉納した。
三条小鍛冶宗近の銘があり、鍔の中央に宗典の名がある。現在も神殿の奥深く、ご神体の守り刀として納められている。
山の神の祭りには、ネムの木で刀を作り、三条小鍛冶宗近の名を書き入れるならわしがある。

【三井の井戸】

小久保さんの山林、井戸谷にこんこんと清水が湧く井戸がある。弘法大師がこの地に来て杖で指示されて掘ったと伝えられる。
400年前、ジョカンボ(腸チブス)が発生して、この谷11軒のうち、小久保さんの家のほかは皆病死した。小久保さん宅はこの水を飲んでいたので助かったと言う。今もその屋敷跡が見られる。
先年小久保の栄おばあさんが大病で入院した時、夢枕にこの山のウツギの木の下の井戸があらわれた。家の人がそこを掘ると古い井戸があり、美しい水が湧き出た。おばあさんは毎日その水を飲んで全快。医者がおどろいたと言う。今、井戸は整備され、大師石仏や手洗いが設けられて、水を汲みにくる人が次々と出てきている。

遅瀬の大飢饉

scan-2天明(1781)のころ、遅瀬に大飢饉がありました。日照りが続いて米が穫れず、その上納める年貢が重かったのです。人々は食べる米もなく、木の実や草の根を食べて暮らしましたが、それもなくなり、今日、明日にも飢え死にの状態となりました。

五月川を越えた治田は、広い田が多く米もたくさん取れましたが、伊賀と大和は米の売買は許されていなかったのでした。
遅瀬の様子を見聞きした治田の大庄屋、市田惣兵衛さんは、青竹の節を抜いて米を詰め、何百本も遅瀬へ送ってくれました。
遅瀬の人々は泣いて感謝しました。お陰で遅瀬村はよみがえったのです。

文政(1826)のころ、また日照りが続き大飢饉起こりました。
この時、伊賀上野赤坂町の石川屋平吉さんは、遅瀬特産の「箕」を数多く買って大金を与えてくれました。一つの箕について2倍3倍の金を支払い、また「永久に遅瀬の箕を買います」と約束して、遅瀬の暮らしを救ったのでした。
村の中に田畑が少ない遅瀬にとって、特産の箕で急を救い、いつまでも箕を買ってもらえることは何物にもかえられないありがたい命の保証でした。

遅瀬ではこの二人のご恩を感謝するため、掛軸にことの由来を書きしるし、毎月村中でお礼の念仏をとなえるようになりました。市田念仏、石川屋念仏というのがそれで、今もお釈迦さん入滅の2月の日、村中で敬虔な祈りを捧げています。

南都さん

scan氏神八幡神社境内(蓮華廃寺跡)付近の古屋敷から150㍍くらい北へ行った地、通称正覚坊(現在、素輪家屋敷内)の土蔵の横に、「南都さん」と呼ばれている宝篋印塔が建っています。

大樒(室戸台風で倒れた)の下に苔むして、ポツンと建てられた一基の小さい供養塔です。
それが今なお信仰の対象となっています。建てられた年代はわかりませんが、室町初期の作であることは確かなようです。

塔身に「南(都)禅尼」の銘があります。総長88㌢㍍、塔身の幅26㌢㍍、高さ16㌢㍍の小型のものですが、美しく整った塔です。

昔から「南都禅尼さんが、七日七晩鐘を叩きながら定に入るといって、穴の中に入っていかれた」と伝えられています。
何を願い、何を救おうとしての業かはわかっていませんが、現代では想像外の偉業を成し遂げられたと思います。

むらの人々はこの業を讃え、高徳を永く後世に伝えようと宝篋印塔を建てて供養しました。村人の信仰はいまなお篤いが、どうかすると祟られるといってあまり近寄らないようになってしまいました。

現在は、素輪家一族によって、定期的に、また、ことあるごとにお祀りしています。

十一面観音様

kakkou広代の氏神、菅原神社の境内に観音堂があり、十一面観音様をお祀りしています。この観音様は江戸のころ、大久保一太郎さんのご先祖様がお武家さんで、江戸から持ち帰って念持仏として拝み、後大字の仏様となって今日に及んでいます。

毎年、旧の8月17日が縁日となっていて、この日は観音会式として厨子のご開帳をされますが、この日と、お正月の「オコナイ」の日の年2回のほかは開けてはいけないことになっています。
等身大に近い立派な観音様は、拝むとねがいごとが叶うと言われ、代々村人が大事にし、深い信心をしています。

大久保さんはご先祖から,「この観音様は“白子(三重県白子町)の観音様”と生まれが同じらしい」と聞いておられ、そのことを確かめたくて、平成3年1月私たち(大久保一太郎氏と筆者、与力の奥中弘氏)は車で白子に行きました。

方々で十一面観音を探しましたが「白子では十一面観音は無く、子安観音が有名です」と教えてもらい、その子安観音寺に参詣しました。
広い境内と立派な伽藍で奈良の東大寺にも似た仁王門と、左右に仁王様が安置され、境内にある青銅の大きな灯籠とともに県の文化財でした。左手には「不断桜」と呼ぶ国の天然記念物もありました。

お堂の中で住職さんから話を聞きました。縁日は広代と同じく8月17日、ご開帳は8月10日の夜11時から1時間だけの秘仏で、御利益もたいへん大きいそうです。
1200年の昔、白子の海岸に鼓の音がして、この観音様が海の上を漁師の網にのってお越しなされたが、それ以来、この白子海岸を“鼓ヶ浦”と名付けて現在に至っているとのことでした。

全国の観音様の縁日は、たいてい8月18日なのに、広代とここは8月17日だということで、縁の深いものを感じました。

その後の3月、広代の老人クラブ32人が“白子観音”にお参りさせていただきました。真言宗の三重県支所長の住職様の話を聞いておりますと、みんな口々に「広代の観音様をもっともっと大切にせんならんなあ」と言い交わしたのでした。

広代の十一面観音様は平安後期の作。光背と厨子は徳川中期であるとされ、村文化財にもなっていますが、私(筆者)はその昔、白子の観音様と同じ仏師によって生まれたのではないかと考えています。

高僧「智龍」さん

scan-2大正の初めに刊行された『山辺郡誌』に、毛原長久寺の様子を「規模ノ大ナル一見驚クニ足ル」と書いてあります。これは他のお寺と比べてみて、びっくりするほど大きく立派だという意味なのです。

ところで、このような姿は元からあったものではなく、明治7年(1874)住職に就かれた『宝山智龍』というお坊さんのお力によることは今さら言うまでもありません。

和尚は天保12年(1841)羽前国(今の山形県)に生まれ、名を『遠藤富蔵』と言いました。遠藤家は代々大庄屋でしたが、幕末のころ各藩の争いに巻き込まれて、すっかり貧しくなりました。富蔵はまだ幼い子供でしたが、家の暮らしを助けるために、他所の家の仕事を手伝ったり、お寺に奉公にあがったりして、永い間大変苦労しました。
明治になって、時の政府は神を敬い仏を軽く見る方針をとったので、次第に衰えました。富蔵はこの時「今こそ仏教を盛んにして平和を取り戻し、みんなの暮らしをよくしなければ」と心に決め、明治2年大和国の初瀬寺へ入門しました。そこで仏教の勉強をするうちに弘法大師の素晴らしい徳に強く心をひかれるようになったのです。

初瀬寺での修業を終えた富蔵は、長久寺にありがたいお経の本があることを聞いてこの寺の住職となり、宝山智龍と名を改めました。明治13年のある日のこと、病気で寝ていた智龍さんの枕元に光輝く弘法大師の御姿が現れて、「本寺境内裏山ヲ開イテ仏法ノ興隆ニ一身ヲ捧ゲヨ」と励ましのお告げがありました。

それに感動した智龍さんは、すっかり病を忘れ、夜を日に次いでお寺の裏山に入り、精魂を傾けて霊場『大師山』を開きました。
この大師山には88体の大師石仏を始め、大師堂や大師夢想湯など数々の施設を整えましたので、人々からは大師信仰のありがたいお寺とされ「毛原のお大師さん」の名で親しまれるようになったのです。また、明治35年には、その偉業に感動された円照寺門跡伏見宮様から、有り難い『豊原山』の山号を頂くことになりました。

scan-3和尚はその他、地域の産業や社会教育の振興にも力を注ぎましたので、美しく輝くみ寺とともに、『高僧智龍』の名は広く世に伝わりました。大正5年(1916)76歳で亡くなりましたが、生前に残された数々のエピソードのうち、幾つかを次ぎに掲げて、和尚の人柄を偲ぶことにいたします。

  • 智龍さんは、なまりのある山形弁を話されたので、初めのうちは少し聞きづらい感じもしましたが、心根はまことに優しくて、だれにでもわけ隔てなく親しくされました。ただ弟子入りした小僧さんには、とても厳しい躾をされたようです。つまりその厳しさに耐えられないようでは、僧侶として仏に仕え世の人びとを救うことはできないというのが、和尚の教育方針だったのです。
  • ふだんは大ていお粗末な浅黄の衣を着て、掃除などをされていられたので、人々は「いつも大へんおしこりで」と話しかけると「お寺はなあ、仏様のいらっしゃる有り難い所やで、いつでもテラテラと照らし輝いているから寺と言うんじゃよ。住職という者はそんな大事な所を預かってるもんじゃから、精一杯体を使うてお寺の隅々まで、しっかり守るのが役目じゃ。だから座ってばかり居って、お経さえ唱えればおつとめ(勤行)がすんだと思うのは、大きな勘違いじゃよ」と言う答えが返るのでした。
  • 食事は決まって一汁一菜(一杯の汁に一皿のおかず)で、肉食は絶対にしませんでした。また暖かい蒲団が無かったので、厳しい冬は蚊帳を重ねて寒さをしのぐというように、大変徹底した粗衣粗食だったのです。なお和尚は生涯妻帯されませんでした。

神様の婿入り

scan-5伊賀の国境、名張川の渓谷に望んで、平和なくらしの村があります。吉田村がそれです。

ここの鎮守、岩尾神社の神様は、伊賀の国から「入婿」にこられたとの言い伝えがあります。もともと、このささやかな山里には、これという鎮守の神様もなく、ただ、春の女神を祀る名ばかりの小さな祠があっただけでした。

その昔、村人が寄り集まって一つの相談をしました。それは産土の神を勧請することでした。中には村人の信仰している明神様がいいと言うものもありました。神域は村の中央の丘の上で、日当たりのよい森の静かな所にところにきまりました。

大勢の村人たちは汗みどろになって奉仕しました。岩を割るもの、槌を振るうもの、木を削るもの、と仕事をして、新しい神殿ができ上がりました。さあ、いよいよ神様の勧請です。宮遷しの晩には、境内から参道まで人でうずまりました。神主はおごそかに祝詞をあげ、村人は一斉に拝礼しました。

この時、あやしい黒雲が伊賀の国境からおそってきて、神殿の上に覆いかかりました。村人がおどろいて見つめる中、黒雲は神域一帯を覆って真暗になり、木々をゆする風がひゅうひゅうとうなって、ごう音が天地にひびきわたりました。

村人はこれこそ真実の神様のお降りだと、おそれおののきながら合掌九拝しました。神主の祝詞が終わるころ、このふしぎな様子は消えさって、かがり火があかあかとあたりを照らしました。やがて正気に返った村人たちは、神殿の裏に、大きな石の長持一荷がおかれてあることに気付きました。

巨岩には、くっきりと十字架の白い筋が大きくついていました。これは長持をになったときに使った‘石だすき‘でした。休憩の際水を飲まれたらしい石の水鉢も残されていました。

これは、たしかに婿入りされたしるしでした。白だすきをかけた巨岩は、神様のご神体として、長持などの石とともに、今も村人たちに厚く崇拝されています(村指定文化財)。