カテゴリー別アーカイブ: 村の語りべ

嫁取り地蔵

scan-5中之庄には二体の地蔵菩薩が、昔からの伊勢街道に沿って祀られています。一体は子安地蔵さんといって、村の入り口で中峰山との境に、もう一体は吉田への出口のナシノキという地に嫁取り地蔵さんが、共に街道に向かって立っておられます。

この俗称“嫁取り地蔵”さんは、大きな岩に刻まれた磨崖仏(背丈約五〇㌢㍍と三五㌢㍍の二体)です。最初から二体の地蔵さんが彫られていたのではなく、初めは一体であったということです。

村の古くからの伝説によりますと、中之庄村へのお輿入れの行列が、この地蔵さんのある付近まで来ますと、突然お嫁さんの姿が消えてなくなるということが、続いて起こったということです。
そこで村の人たちが集まって、いろいろと話し合いました。その結果、このような嫁取りが起こるということは、お地蔵さんが独り者であるからだということになりました。
そこでこの独り者のお地蔵さんに、お嫁さんをもらってあげてはということになり、寂しく独り立っておられる横に、お嫁さんを一体追刻しました。そして、夫婦地蔵として供養することにしました。それからは嫁入りの行列が通っても、花嫁さんの姿が消えて無くなるということはなくなったということです。

今では、この、磨崖仏も風雪にさらされてそうとう摩滅していますが、よく見るとこの二体の仏の刻まれた年代は、確かに違うようです。

旅僧が刻んだ地蔵

scan毎年十月十四日を迎えると、十七戸の者が集まって「念仏講」を営んでいます。そこで、この講のいわれについて、丸山清重さんの祖父「松吉じいさん」が生前教えてくれたあらましを、まとめてみることにします。

この話は明治十年代のころにさかのぼりますが、ある日のこと、お遍路姿の旅僧がひょっこり丸山さんの家にやって来ました。よく聞くと、「伊賀の国猪田村の方で、たいへん徳の高い智龍和尚の教えを受けるために参ったが、その間宿をお世話ねがいたい」、とのことでした。
一見して礼儀正しく、信仰心の厚い人のように感じた松吉じいさんは、快く宿を引き受けました。

それから何日間か智龍和尚の許で熱心に修業を積まれた末、心に何か感じるものがあったのか、自然石に地蔵さんを刻み、お寺の隅に、自分のふる里の方へ向けて建てました。

いよいよ旅立ちの日がやってきて、旅僧はじいさんに申しました。
「長らくお世話になりましたが、これからまた旅を続けて修業を重ねたいと思います。しかし生きてる限り、いつ、どこで世を去らねばならぬかも知れません。たいへん厚かましいお願いですが、もし私が、死んだと聞かれたら、どうかこの地蔵碑の供養をおねがいしとうございます」
と言って、金三拾円をじいさんに預け、いずこへともなく立ち去りました。

その後、明治十九年の春になって、その旅僧は、長谷寺の近くで亡くなったとのしらせを受けました。
じいさんは旅僧の遺言どおり、この僧と関係があった人たちを集め、その年の十月十四日に「念仏講」を結成しました。そして、今も毎年その日に、みんなが地蔵碑の前に集まってお念仏を唱え、亡き旅僧の面影を偲びながら、弔うことにしています。

四辻の六地蔵

scan-3毛原の東出にある「六地蔵」は大変古く、彫り方もすぐれているので、広く世に知られています。

昔、ある日のこと、どこからともなく旅僧がひょっこり現れて、毛原廃寺のそばに立ち止まりました。そして、あたりを見回しながらつぶやきました。
「これはまあ、何という廃れかただろう。それにしてもずいぶんと大きな伽藍跡じゃ。こんな見事なお寺を建てるからには、きっとたくさんの人たちが、長い間言い知れぬ苦労をしたに違いない。そうじゃ、ひとつお地蔵さんを刻んで、その人たちの霊を弔うことにしよう」

旅僧は早速身を清めて、大きな石に向かってお念仏を唱えながら、一晩のうちに六体の地蔵を彫り刻みました。これが今、四辻にある「六地蔵」なのです。

ところでこの場所は、大昔から車の時代に入るまでの長い間、村にとっては一番古くて大事な街道筋でした。そしてこの所は、廃寺の屋敷を避けて東西南北に交差しているので「四辻」の名がついたのでしょう。

さて、六地蔵のある所はたいていお墓の入り口なのですが、ここから墓までは大変離れています。そんなわけで昔ある日のこと、村の若い人があつまって、「六地蔵」をお墓の近くへ移すことにしました。なにぶん大きな一石地蔵なので、力の強い若い衆でさえ大変骨が折れましたが、その日の夕方にはやっとのことで、墓近くまで移すことができました。みんなはへとへとに疲れていましたが「できた、よかった」とはしゃぎながら、夜の更けるのを忘れてお酒を飲みました。

ところがどうしたことでしょう。東の空が白むころ、村中、にわかに変な病気が広がったのです。「これはえらいこっちゃ、なぜやろ」と大さわぎになりました。その時、村の長老が言いました。「皆の衆、よう聞け。これはお地蔵さんをわが等の都合で無理やりに動かした祟りじゃ。早う元の所へ戻さんと、村中一人残らず死んでしまおうぞ。」

「なるほどそのとおりだ。まことに申し訳ないことをした」というので、急いでお地蔵さまを元の四辻へ戻し、それぞれに供え物をして、お地蔵様におわびをしました。

一時はどうなることかと心配した恐ろしい病気も、うそのように無くなりました。それからはお地蔵様を動かしたことはなく、いつも花や水が供えられるようになりました。(村指定文化財)

岩屋・枡型ものがたり

お大師さん(弘法大師空海)は、国内をくまなく回って人々の幸せの基を開かれた人で、そのおかげを受けない人はなかったと言われています。
天長二年(八二四)、お大師さんがこの地方を回られ、北野腰越の宝泉寺にお住まいになりました。ある夜、夢枕に大日如来様がお立ちになり、北の方の牛ヶ峰を指さして「仏教の根本の基を開く霊場とするように」とのお告げがありました。

iwayairiguti牛ヶ峰の山は、その当時東大寺の杣山でした。大師はこの山に入り、岩窟の大岩に大日如来を刻みました。「のみ」と「つち」で大岩に仏の全身を彫りつけるのは大変なことです。毎日毎日コツコツと仕事を続け、その音が山々にひびきました。
こうして見事に仏を線刻された大師は「さて、こののみとつちをどこへしまおうかな」と考えられました。ちょうど真上に、表が板のように切りたった大岩がありました。「よし」とうなずいた大師は、その岩の上部に枡型の切れ目をつけ、岩を掘り取った中にのみとつちを納められたのです。
以来、下の岩窟を岩屋、上を枡型岩と呼ぶようになりました。

この二つの大岩は、もともと一つの岩だったのですが、いつのころか地面が大ゆれの時、真っ二つに裂けて一つが落ち、下のつっかい石の上に横たわったものだと言われています。

岩屋は神仏が溶けあった神道霊場として岩屋寺と呼ばれ、頭上の大日如来を本尊として、ほら穴の中に不動明王を、境内入り口に善女龍王を祀る修業の聖地となりました。戦を捨てた武士や、身内の不幸をなげく人々、あるいは山伏たちが救いを求めてこの山へ登って来ました。山の冷気と静けさの中で、ひたすら読経に溶け入ったのです。

岩屋寺から枡型岩へ登る参道には、中興の祖と呼ばれる空仙広祐が造った地蔵石仏(享保四年=一七一九)などがあります。空仙さんは人々の幸せを祈るため、自分から墓穴に入り二一日間鐘を鳴らして成仏したと伝えられており、その墓の上には弥勒菩薩が祀られ、地元ではそれをクスセンと呼んでいます。

天正のころ(一五七三~)、岩屋寺で修業に励む若い僧の姿がありました。名は宥海、伊賀の国、滝村の豪族、滝三河守保義の弟で、早くから仏門に入り、岩屋寺宥専和尚を慕ってここに来たのです。
天正七年九月、北畠信雄(織田信長の二男)は伊賀を攻め、滝村の七仏薬師院を焼きはらいました。三河守保義は懸命に迎え撃ちましたが、負けて戦死しました。
岩屋寺にあった宥海は兄の戦死を知り、故郷に帰って防備を固めました。天正九年(一五八一)織田信長は再び伊賀を攻め、四万五〇〇〇の軍勢が社寺を焼きはらい、伊賀の土豪はみな討ち死にしました。宥海は仏の加護で生き残り、牛ヶ峰に帰りましたが、師の宥専和尚はすでに他界して、師弟の再開はなりませんでした。

宥海は五輪塔を建てて師の菩提を弔っていましたが、天正十年十月、おもいがけなく信長が本能寺で明智光秀に殺されたのでした。安心した宥海は、故郷の滝村でお寺を継ぐことをきめ、岩屋寺にあった阿弥陀如来像や、弘法大師が唐から持ち帰ったという五鈷杵などを持って滝村へ帰り、七仏薬師院の跡に立派な滝仙寺を立てたのでした。

2岩屋、枡型は開山以来、人々の霊場として広まったのですが、世の流れと、とくに明治元年(一八六八)の神仏分離令によって起きた廃仏棄釈の波により、荒れ果てるままとなりました。
降って明治二十五年(一八九三)九月、北野西村の人びとが枡型岩に足場を組んで、枡型を開き、一般に公開しました。それは弘法大師が岩屋の大日如来と、もう一か所奈良市丹生町のソガオ地蔵像を岩に彫る時、使ったと伝えられるのみとつちが枡型に納められてあるのを公開し、霊場を明らかにすることにありました。
この開扉の大法会によって、岩屋・枡型は広く世に知られるようになり、枡型大師・ソガオ地蔵の巡礼が流行したのでありました。
布目ダムの流れを真下に見下ろす牛ヶ峰の岩屋・枡型は今幾多の歴史の謎を秘めながら、村内外の人々が目を見張る探訪の地となっています。

「牛の宮」の昔ばなし

scan-3広代に牛の宮と呼ばれる在所があります。古くから、天王さん(神波多神社)と深いつながりのある「牛の宮さん」が鎮座され、牛を連れてお参りする人が多く、その上、奈良・天理から伊賀上野、名張へ通じる街道筋で商売が繁盛して今日に至ったところです。

天文(一五三二)のころか、吉田で川を利用して、茶や生糸を大阪へ出していた吉住という家がありました。代々問屋と呼ばれるその家から、牛の宮の地に隠居して、吉住と名乗ったのがこの在所の始まりなのです。

吉住さんは、そのころの領主・奥田家や、代官から米を買って酒を造っていたので、酒屋と呼ばれるようになりました。
大正の中ごろまで、本宅や酒倉が並び、伊賀から来た五、六人の倉男たちが、にぎやかに働いていて、米を蒸して作ったひねり餅を、子どもたちがもらいに行ったそうです。たくさんの金子を上納することになり名字帯刀を許されていて、そこの女の人たちが遠出する時は、金襴の打掛けを着て、懐剣を差し、お駕籠で行ったそうです。

この吉住さんから次々隠居が生まれ、その隠居からまた隠居して次第に家が増え、みんな「吉住」と名乗りました。油屋あり、綿屋あり、シミセ(雑貨屋)あり、呉服屋ありで、お伊勢参りの休憩所として、天王参りの買い物場として栄えてきたのです。「丹波市(天理市)から上野までで、ひと所で何でも揃うのは牛の宮だけや」とも言われてきました。

油屋の吉住は、油と醤油を造って売っていました。数多くの、五寸に二尺の箱に、煮た豆をひと並べにして、それに麴をかけてむろに入れたものを、酒桶と同じくらい大きな桶に入れて醤油を造り、桶と桶の間には長い大きな渡り橋を渡してありました。
醤油屋の栄三郎という人は、朝起きの早い人で、大豆を大きな釜で焚きながら「何をするにも身を打ち込んで仕事をする良い男と女」の話をいつでもしてくれたものです。
昭和の中ごろまで、今の油重ストアから西側に、酒屋の本宅を利用して、波多野信用購買利用組合があって、後に波多野診療所になりました。

酒屋の隠居に神谷という家がありました。吉住と名乗るところを、その付近が“カミヤ”という地名だったので“神谷”と名乗り、銀行のないころの金融業を営みました。また、“鳥ヶ尻”というところに大きな水車小屋を造り、酒屋の酒米を搗いていました。神谷の上に“テンショ”というところがあります。奥田の殿様のトリデがあった所ともいう一〇㌃ほどの台地で、今は竹やぶになっているが、一尺ほど杭を打ち込むと、底には意思が敷きつめられていて刺せない。その台地の南下は四㍍ほどの石垣で、中ほどに縦二㍍、横一・五㍍ほどの穴があり、今から五〇年前は、三㍍ほど奥へ入れたが、今は入り口も土で埋まっていて、戦国の世の抜け穴だったのだろうと言われています。広代には門南橋があり、“テンショ”もあって、興味深い所です。

その隣の方に“ゼンノジョ”という所があります。寺があったのか、五輪塔や石碑がごろごろ転がっています。その下の柳ヶ瀬川の田の角に「赤井」と呼ばれる水が湧いている所がありました。多分寺の井戸だったのだろうということです。その下の方の平地はモチ屋(藤森良一)の旧宅跡で、その場所で藤森さんが餅屋を営んでいたそうで、それで今でも、藤森宅は“モチヤ”と呼ばれているのです。
その前は村道で、今の国道ができるまでは東西の交通の要路でした。

昔ある日、この道を通って、美しい娘がモチを買いに来て、それから毎日来るようになり、餅屋が大変繁盛しました。餅屋の主人は、見たこともないこんな美しい娘がどこの人やらと思い、後をつけて行くと、牛の宮の池の東の角に祠があって、その中にすうっと消えて行きました。そこで初めて、娘さんは弁天様であったことがわかりました。でも、それからは、ぷっつりと餅屋へこなくなり、店もあまりはやらなくなったそうです。
弁天様は今、天王さん(神波多神社)のうしろに小宮様として祀られています。

水にしいたげられる橋

mizunisiitagerareruhasi広瀨の道を曲がりくだると、名張川がゆるやかに流れ、近代的な鉄筋の大橋が見えてきます。この大橋がかかるまでは、長い間釣橋、そのまえは粗末な板橋でした。

ここは昔からの伊勢道で大川を舟で渡って名張、青山を越えて、伊勢まいりをする大事な所だったのです。
釣橋ができるまでは、「橋板まくり」の仕事がありました。川の流れを横切って、広瀬側から向こう岸にかけて、X字に組んだ杭が幾組もならんでいる。その上へ幅六〇㌢㍍、長さ三㍍の板がならべてある。宝珠もなければ欄干もない粗末な橋で、歩くとユラユラゆれて、よそ者には大変こわいが、広瀬の人は重荷をになって平気で渡ったのでした。

橋のたもとに見張り小屋があって、いつも水の量を見張っていました。急に大雨が降って水が増えると、半鐘を「ジャンジャン」鳴らして、村人に橋の危険なことを知らせるのです。
夏のころ、今まで晴れていた空が急に曇り出し、夕立がおそってくると、向こうの野山で働いている村人たちは、木陰や山小屋へ雨宿りをします。川は見る間に濁流となり、音を立てて流れます。水面から一㍍もない板橋は、みるみるうちに危険な状態になります。
半鐘の乱打に、村人はみな橋のたもとにかけつけ、若者たちはわれ先にと激流に飛び込んで、大事な板橋を次々にまくり上げるのです。高価な板橋を流すとそれこそ大変で、広瀬の人たちは、そのため日ごろから暮らしを切りつめ、貯金してそれに備えてきました。
「広瀬の村へは養子にやるな」このことばの中には橋の苦労がよくにじみ出ているのです。

この「橋板まくり」とともに、つぎのような物語が伝えられています。
昔、この村に美しい少女がおりました。名は「おふみ」といって、村の貧しい百姓の子でした。一六の春に、ある庄屋の家へ奉公に出ました。ご飯たきや機織りなどをいそがしくしているうちに、二年間は夢うつつの間に過ぎ去りました。
庄屋には権太夫という若者がおりました。おふみは権太夫から純情な愛を受けて、二人の心はかたく結ばれました。ところが権太夫の父は強情者であったので、二人の仲を聞いてたいそう怒り、おふみを家から追い出してしまいました。
家に追い返されたおふみは、片恋の身のやるせなく、ついに病の床につき、はては思いあまって、鵜山村の蜂ヶ巣淵の渦の中に身を投げて、はかなく命を絶ったのです。それからというものは、この場所になんべん橋をかけても大水で押し流されてしまうのだといいます。

角兵衛さん

中之庄の南の端、三重県名張市と境する位置に馬尻山があります。

昔、この馬尻山の所有権をめぐって、伊賀の国と大和の国で争いが起こり、長い間紛糾したことがありました。その当時中之庄に「角兵衛さん」という人がおられて、この人が参謀格となり、紛争解決の衝に当たっておられました。
いろいろと話し合いを重ね、協議を重ねましたが解決の糸口は見つかりませんでした。さんざん苦心したあげくの果てに出た結論は、この争いの解決には、なんとしても大金が必要ということになりました。
ところが当時の村は貧困でとてもそんな大金はできなく、その調達にほとほと困り果てていました。そのとき、平素は大変な節約家であった善福院の一僧侶が、村のこの一大事を救おうと、ただちに箕に三杯の黄金を村になげだしました。そして「角兵衛さん」とともに、この大金を持って折衝に当たり、村の危急を救ったといわれています。

kaku角兵衛さんと善福院僧侶の偉業を、村人は永く後世に伝えようとして、角兵衛の墓の上に松の木を植え、「角兵衛松」と呼んで大切にしていましたが、先年の落雷によって枯死してしまいました。
善福院の僧侶の碑は、大寺跡に残っています。

筒井順慶と岩屋のお宮さん

天正八年(一五八二)に伊賀の乱が起こりました。全国統一を目指す織田信長は、大和の国守筒井順慶に命じて、伊賀を討たせたのです。
小泉の居城を発った順慶は、笠間峠から伊賀の柏原へ進み、一軍は上笠間より笠間川沿いに岩屋を通り、伊賀の薦生に進みました。

一説には、勝原より峠を越えて岩屋に向かう際に、谷に矢を射かけて進んだので、”矢下ロシ”の地名ができたともいわれています。

薦生へ進んだ順慶軍は、薦生の郷士武田、副野、福広軍の強い抵抗に遭い、止むなく退いて、平瀬の犬飼堂に陣し、八王寺社(今の八柱神社)に戦勝祈願をしました。
まず清らかな不動の滝で身をきよめ、戦士一同の槍を社前の椋の木に立てかけて必勝を祈ったのです。その椋の木を、それから「槍立ての椋」、又は「鉾立ての椋」と呼ぶようになりました。
こうして順慶軍は、岩屋の郷士を加えて軍を立て直し、破竹の勢いを持って攻め入り、遂に伊賀の国を平定しました。

ここにおいて順慶は、八王寺社の霊験に感謝し、それ以後たびたび八王子社に参詣して、天正十年には金品を社殿に捧げ、新しい神殿が造られました。
また境内、不動の滝のそばにある一基の石灯籠は、順慶の伊賀攻めに従軍して戦死した、岩屋郷土の九十回忌の供養のために建てられたものとして「寛文十二年八月五日奉為供養 氏人」と記されています。

tutuijyunkeiこのような由緒ある氏神を持ったことを村人は誇りとして、灯明を絶やさず、毎日勤務の宮守さんを交代で選んで、管理と祈りに励んでいます。
また、正月には、除夜の鐘が鳴り終わるのを待って、村人は競って氏神さん詣でに出かけます。お互いに新年の挨拶を交わしながら社前に進み、一年のお祈りを捧げ、そのあとで宮守さんからお神酒を頂戴します。また、子どもたちはお年玉とキャラメルをもらいます。
不動の滝には、滝壺の清水で額を冷やすと頭がよくなると言い伝えられ、その仕草をします。

どんなに時代が変わろうとも、村人の敬神の念は変わることなく、またご神体も、岩屋の里の鎮守の神として、永遠に鎮座ましますことでありましょう(村指定文化財)。

下ん堂の山崩れと水害

村の北西、「天守山」から「城が尾」にかけて、北を背に南向きの日溜まりや急な斜面に、八戸の家が重なるように建っている。この小場を”鍛冶屋出(カンジャデ)”という。
秋になると、よく県道のあたりから子どもたちが写生をしているが、石垣やジンド柱や急な坂の道など特徴のある風景は、郷土出身の画家が油絵にして入選してから人気があるらしい。

下ん堂は”鍛冶屋出”の祠堂で、谷出川と小場の前を流れる堂坂川の合流地点。村でも最も低い北の出入り口にあって、村を守護しているかのように、川を背に道に向かって建っていた。
堂内には、子安観音菩薩石像二基が安置されているので、別名下ん堂のことを観音さんと呼んでいる。
この観音さん、時々真っ赤な腹帯を巻いておられる。安産の仏様として大変ご利益があるとかで、お参りする人が多い。

村人が子どものころからなじんできた下ん堂と、隣の民家(森中宅)が大災害に見舞われたのは、大正六年(一九一七)十月二日、今から七九年前のことであった。
お堂と茶店を兼ねた民家は、正面の山崩れと谷出川の増水とで、家屋は土砂に埋まり全半壊。森中の家族のうち、二人は家の下敷きとなって圧死、二人は流されて水死した。村にとっては、未曾有の人災を伴う災害として今に語りつがれている。

当時のことを飯田イトエさん(九十三歳)はこう語っている。

わしはその時、十五歳で、家の仕事の手伝いをしていた。九月の末、バケツでぶっちゃけたような雨が続くので、村の人々は心配しながらも、ちょうど晩秋蚕の上族の真っ最中やったんで、なんどころやなかった。十月二日の日は珍しく雨がやんだんで、お父っつぁんは村の「籠り」を休んで、風呂場の下の土手のくえたのをなおしてやった。
夕方五時ごろ、親類の加太の亀(亀治郎)さんが、「籠りの帰りや。つね(常治郎)は籠りを休んだことないのに、どうやらとおもて見舞いに来たら、そんなことしとったんか」と坂道を上がってきゃった。

scanいつもならゆっくりとしゃる亀さん、一服茶を飲んで「おれも朝、出たなりで、うちのこと心配やさけ帰るわ。お前とこ高いさけ、用心せえよ」と言い置いて帰っていきゃった。その後亀さん、なにやら胸さわぎがして森中の家へ立ち寄りゃったげな。

森中家では、床下が水につかったので、母親が忙しそうに片づけをしてやった。川の水は石垣を越えて、お堂と店の庭を浸している様子を見て、「おまえとこも、えらいこっちゃのう」と亀さん。「どうやらのう。心配やわえ。まあお茶でも出すさけ・・・」と母親は茶を入れようとすると、亀さんは、「お母さん、それどころやないで、長雨であちこちくえとる。水も引きそうにない。中尾の裏がくえたら、お前とこも一ぺんに埋まる。はよ、子ども起こしてこちへ来い」とせき立てた。「亀さん、ほんまにすまんのう。兄がおらへんし、頼りにならんもんばっかりで・・・。そう言ってくれりゃ、あまえさしてもらうわ」と、すぐに障子戸をあけて、姉キクノと弟の鉄治郎を起こして「あぶないさけ、はよ亀さんについていけ」と言い、奥の納戸で寝ている子どもの辰雄に「辰、起きろよ!」と、蚊帳を持ち上げた時、頭上でドドドドド、ギギギーと重苦しい屋根にのしかかるような物音がした。と、思ったとたんに家がゆれて柱や建具が倒れかかった。

亀さん必死になって、明かりのする川の上の窓から、「お前ら、おれについてこいよ」というと同時に川に飛びこんだ。亀さんは濁流で足をすくわれ、無意識に犬かきをしながら田の方に流される。気がついたら中南の田の後毛の稲束を握っていたという。「鉄は続いて窓から出たと思うが、あの濁流では、とても助けられるような状況ではなかった」と後から亀さんは言っていた。

飯田シズコさん(八十五歳)も、その時のことを次のように話す。

わしとこも、蚕上げやった。夕方、非常呼集のラッパが鳴った。何やらっとあわてて外に出てみると、”大井戸のあたりで、下ん堂さんと森中が埋まったげな”と呼び合う声が聞こえた。程なく、消防さんが何人も法被を着て、スコップなどを肩に、走って下られる姿が見えた。
あとで、森中の家族が生き埋めになっていると聞いて、驚いたのを覚えている。
亀さんの知らせで救助活動が初められたが、大量の土砂と川の増水がおさまらないので手がつけられない。消防団は、ひとまず本部を坂本の茶小屋に置いて、天王の駐在所に連絡して指示を受けることにした。
巡査がかけつけた時は、もう暗くて作業は困難なため、本格的な救助復旧活動は、翌日夜明けとともに行うことになった。

その晩、山の中腹にある飯田のつねさんとこの、家の裏手の漆谷の竹藪が、谷底の川や田を飛びこして、数百㍍先の、向かいの尾山の山裾と、水田との境にへばりつくように落下していた。谷間を落ちて行った跡は全くなかったので”どんねんして飛んで行ったんやら”と人々を不思議がらせた。
早朝から救助作業が始まって、最初に掘り出された遺体は姉のキクノであった。倒れた家の戸の隙間から片手が出て、水の中でフラフラと白く動いて、生きているように見えたという。
母は奥の間の仕切りで、辰雄の蚊帳をひっぱるようにして圧死していた。その奥で辰雄は、仏壇と柱の間で蚊帳に巻かれたまま、虫の息でいるところを奇跡的に助け出された。
鉄治郎を捜すのは困難を極めた。濁流と流木で、どこまで流されたのか皆目見当がつかない。そんな中、多くの村人が捜しに加わり、やっと四㎞も下流の大谷の岩場で、流木の間にひっかかっているのが見いだされたのはもう午後であった。三人の遺体は、棺に納められて、山の神の前の莚の上に並べられた。
奈良の連帯に現役で入隊中の兄の宇一郎にも知らされて、中隊長の特別許可を得て帰郷した時には、棺が並べられた直後であった。兄は、人前もはばからず男泣きに泣きくずれ、周囲の人々も、あまりのいたましさにもらい泣きしたという。
葬儀は、親受けである峰出の森中家で営まれた。残された末弟の辰雄は親類へあずけられ、下ん堂の森中の家は廃屋として取り除かれた。屋敷はいつしかお堂の庭になり、川端の石垣の上に、さるすべりの美しい花が遺霊をなぐさめるかのように咲いた。

三か村縁組みご法度

scan-3室津と北野山(現在奈良市)と、桐山は、昔から大変仲の良い村でした。地続きで家々の付き合いも多く、氏神は桐山に社(郷社)を設け、祭りには三か村から桐山の宮にお渡りをして来たのでした。
ところが、いつのことか、お宮に備えつけてあった湯釜のことから争いが起き、それから郷社を解消して、争いの原因となった湯釜を、布目の大川に投げ込んでしまいました。
昔のことですから、どんな原因だったのかわかりませんが、祭礼の時、渡り衆を清める神聖な祭器である湯釜を、無きものにするほどですから、大変な紛争だったのでしょう。
湯釜を投げ込んだ川はたちまち変じて、大きな渦巻く淵となったというのです。これが釜淵の名の起こりです。

一説には、当時の祭神、九頭大明神の黄金の鍋つかみがあって、そのことから三か村の争いが起こったとも言われています。
今、桐山の神社には湯釜があり、永正十一年(一五一四)の銘が入っていますが、紛争の時のものであるかどうかはわかりません。

湯釜紛争があってから、お上(藩主)は、二度とこんな紛争が起こらぬよう「三か村縁組を禁ずる(縁組みご法度)」という厳しい禁令を敷きました。封建村落取り締まりの最後の手段だったとみられます。
これも氏神の神意によるものとか、破るとたたりがあるとか言われ、そのお仕置きは「縁を切る」とか「二度と敷居をまたいではいけない」とか、非常にきついものでした。

三か村では、それぞれ別に戸隠神社(手力男命)を造り、祭礼も神役も同じように行うようになりました。長い年月、縁が切れると、村同士は互いに疎遠になり、付き合いも少なくなりました。何回か復縁を話し合ったのですが、合意に達しなかったようです。

明治以降はそのご法度もなくなり、縁組みも復活して、幸せな家庭生活が行われるようになりました。
現在、老人たちも、室津、松尾、桐山で「三寿会」を結成し、交際を広める良き時代となりましたが、考えてみると、実に不幸な時代を経て来たのでした。