カテゴリー別アーカイブ: 村の語りべ

恋の淵(筏のたまりの淵)

大きい名張川と笠間川の合流点、平井亭のうしろの深い淵。あの青々とした深みに悲しい話が今も残っています。

scan川沿いにあった昔の道は、名張のまちから木津へ、そこから北の京都へ通じる道でした。
昔、名張の青年が京都の都へ仕えることになりました。彼には相愛の彼女がいました。いよいよ都へ出発する日が来ました。青年を途中まで送って、二人はここまで来ました。青年は「もう貴方は名張へお帰り。私は一人で行きます」と申したのですが、彼女は突然、彼に身を寄せて来ました。
「いっそこのまま淵へ・・・・・・」と、二人はこの深みに入水したのです。この淵は「恋の淵」と言い伝えられています。

この合流点はまた、東大寺建立の時代、上流の青葉山(板蠅ノ杣という寺領)の太い木を伐って笠間川を流し、この川原で筏に組み、名張川を流して木津で陸揚げし、奈良へ運んだようです。恋の淵はまた、筏のたまり場でした。

筏流しは大正の末まで続いていたようです。若い男女の悲恋と筏流し、この川辺の淵にまつわるお話です。

京原の都

寒さがやわらいでやっと春らしくなったある日のこと、お天子様があちこちの村々を回られたあげく、ひょっこりと毛原の里へお出でになりました。

kiyouharanomiyakoこの里は、蓮の花びらのような形をした山々に取り囲まれていて、なんとなく落ち着いついた感じがします。また、里の真ん中を西から東へと一筋のきれいな川が流れており、その北側には家々がきちんと南向きに立ち並んでいます。
一方、川の南には平地があって、そこには早くも麦が青々と伸び、菜の花が咲きみだれ、かわいい小鳥のさえずりさえ聞こえてきます。まったく春の初めとも思えないほどの暖かな日差しを一ぱい浴びて、人々は楽しそうに仕事に励んでいました。

しばらく立ちどまって、こののどかな景色をご覧になっていた天子様は「まあ、なんという平和で住み心地のよさそうな所だろう。その上、都を造るのに一番かっこうのよい姿になっているではないか。そうだ、わしはここを都ときめて住むことにしよう」とおっしゃいました。お天子様をお迎えした村人たちは、「ほんとうにありがたいこっちゃ」とたいへん喜んで、都造りに力を合わせました。

そんなわけで、見る見るうちにりっぱなご殿やお役所ができましたし、でっかいお寺も建てられました。また、飲み水がいちばん大事だというので、深い井戸も掘られましたが、そこからは顔が映るほどのきれいな水がこんこんと湧きました。『お天子様の御井や』と言うので、たちまち世間の評判になりました。そのうち、国ぐにから大ぜいの人たちがあつまってきて、すっかり都が整いました。静かな里に住み慣れていた人びとは、咲く花の匂うような栄える村の姿を見て、生きる幸せを存分に味わったことは言うまでもありません。それから、だれ言うともなく、毛原を京原と呼ぶようになったのです。

こうして平和な日々が何年も続きましたが、ある日のこと、お天子様がお亡くなりになりました。
村人たちは悲しみに包まれながら、天子様が朝夕大へん愛しておられた茶臼山へ、その亡きがらを葬ったのでした。
それからは、はなやかだった京原の都も夢のように消えて、また元の静かな毛原の里にもどったと、村では伝えられています。

(付記)

本文の『天子の御井』は、後世「山辺の御井」として万葉の歌に詠まれ、脚光を浴びることになったとも伝えられています。

庄田さんの話

森田の家に伝わる話です。

天正のころ(1573~)、村の後の峰の上に庄田さんという侍が住んでいました。その子の庄田新八良藤原千代松は、小さい時から学問が好きで、昼も夜も本を読んでいました。北野の天神社や神野寺へもお参りして、勉強を積みました。武芸にも熱心で、馬に乗って柳生道場にも通い、技を磨きました。

syoudasannohanasiある秋のことです。大夕立があって、庭に干してあった籾がすっかり流されてしまいました。家の中で一心に本を読んでいた新八良は大雨に気づかず、籾の片付けを忘れていたのです。
野良から帰ったおとうさんは、怒って新八良の大切な本をみんな燃やしてしまいました。本は黒い火のかたまりとなって空にのぼり、西へ西へと飛んで、奈良の谷間に落ちました。それからそこを「火落ち谷」と呼ぶようになりました。

その後新八良は家出をしたのですが、村を出る時、村びとに刀とふとんをあずけ「わしが帰ってこなかったら森の八幡さんに祀ってくれ」と言い残したそうです。それから新八良の行方はわからないままです。柳生や方々で武芸にはげみ、立派な武士になったとも言われています。

森田の裏山に八幡さんの祠があります。毎年十月十五日を命日として、おまつりをしています。森田の家には「新八良千代松のうばなり」という天正時代の位牌がありますし、峰には「庄田屋敷」という畑や「馬洗いたんぼ」、「馬駆け場」があり、庄田さんが作った道しるべも残っています。

黄金塚

中之庄の八幡神社境内の上、俗称″古屋敷〟と呼ばれる地に黄金塚があります。

koganedukaいつごろ造られ、なにの塚であったのかなどは、一切わかっていません。今は荒れ果てて、村人からは忘れ去られようとしています。ところがここに伝わる伝説として「毎年元旦の晨(朝)、この塚の上で金色の鶏が東の空高く鳴く」と伝えられています。
そしてこの声を聞いたものは、家内安全・無病息災・五穀豊穣で長者になると言われています。ところが残念なことに、未だに、この一番鶏の鳴く声を聞いた人は一人もいません。

むらの新しい年が、黄金塚の上の金の鶏の声であけていったという発想は、まことにめでたくて心あたたまるものがあります。

元旦の朝に金の鶏が鳴くという伝説のあるところは、なんと大和には二十数例もあるようです。
郷土史家、中川明氏によりますと、これら金の鶏が鳴くという所は、二~三の例外はありますがおおむねは古墳の上ということです。

雨乞いと弁天池

昭和の始めまで、雨が少ない時には、宮年寄りが素麺を食べるとか、お宮さんの碁石を洗うとかで、雨が降るように願かけをしてきました。

amagoitobentenikeそれでも雨が降らない時は、神野山の裾の五か大字から松明を持って、法螺貝を吹いて太鼓をたたき「雨たもれ、たもれ」と言いながら山頂まで登り、山頂で松明を燃やして雨乞いをしていました。この雨乞いで、三日のうちに雨が降ると、村中でみ仏様に「一荷餅」を持ってお参りしました。
それでも雨が降らないときは、最後の手段として、弁天池の奥にある「鏡池」の水を換えると大雨が降るという言い伝えがあります。

ある時、「鏡池」の水を換えた人がいて、その後、伏拝だけに大雨が降ったことがありました。
村の中を流れる小川の水が溢れて、段々の田んぼの畦から、滝のように水が流れていました。この時、奥山から流れてくる水は澄んでいて、伏拝の村の中を流れる川の水だけが濁っていました。

村の人たちは「龍が天上した」(弁天池の龍が天に昇った)と言い、それ以後、「鏡池」の水を換えると大雨になると言って、どんな干ばつになっても、手をつけたことはありません。

不動の滝

今の五月橋から月ヶ瀬に通じる観光道路は、昔は人一人が通るほど細いけわしい道でした。両方から熊笹がおおいかぶさり、とても難儀な道でした。

fudonotaki不動の滝は、遅瀬から月ヶ瀬への途中にあり、いくつもの滝が連なり、最後の大滝は4~5mもあって、幾条もの水が流れ落ち、すばらしい景色を作っていました。滝のほとりには不動明王を祀るお堂があって、人々はそこでお籠りをし、仏に祈ったのです。
滝水が落ちる川面を蛇淵と言います。向こう岸の藤のつるが伸びるころ、大蛇がそれを伝わってこちらの藤に渡り、天上を向くと大雨が降ると伝えられました。「遅瀬の蛇淵に蛇がいるジャげんな。おんジャかめんジャかわからんジャー」とも言われます。
滝の近くに大きなゴマタキ岩があります。長い日照りが続く時は、この岩で僧侶や山伏が護摩を焚いて雨乞い祈願をしたと聞きます。

西の山には天狗岩があります。背丈4m、上は畳4畳半もある広さで、その昔、付近で天狗が集まって、相撲大会をしたそうです。その下が老間の瀬。尾山の真福寺から眺めると、山の端から月が出て、この瀬を照らし、さざ波がきらきらと輝いてとても美しいのです。それで月ヶ瀬の名前が生まれたそうです。その上の方に梅がたくさん咲いていて、月ヶ瀬の梅からは離れているので、隠れ梅の里と言われています。

そんな多くのいわれに囲まれて、不動の滝は、明治・大正・昭和の初期まで大変にぎわいました。多くの幟も立ち、布教師も住んで、縁日には白衣で滝に打たれる人、お籠りを続ける人でにぎわいました。近郷はもとより、遠くの人たちもお陰をいただこうと熱心に足を運んだものです。

そんなにぎわいもいつしか絶え、その上観光道路もできて、今は、残っているわずかな滝が流れ落ちているだけになりました。「不動の滝」は今、遅瀬の学校道の滝に移され、館も建てられて、遅瀬の信心深いおばあさんたちが月一度お参りして念仏を捧げています。

愛宕代参

菅生の大垣内では、昔から火災がありません。これは、古くから京都愛宕神社の火伏せの神、火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)をお請けしてまつり、その上、毎年本社に代参して祈祷する、そのご利益によるものなのでしょう。

atagodaisan戦後まもなく、振り上げで代参二人が決まりました。桜のころをあるいて名張へ。電車で京都に着き、山の上の愛宕権現様に参拝を済ませた二人は、清瀧の橋のたもとに宿を取りました。川魚の料理でほどよく地酒の酔いもまわる。謡曲が得意な二人は、清流と満開の桜を愛でながら、数曲うたいあげ、最高の気分でぐっすり眠ってしまいました。
あくる朝目を目を覚ましましたが、さあ大変。
床の間に置いた財布や、身の回りの品々がごっそり盗られてしまっています。朗々と流れてくる謡いの主は、お金持ちの旦那さんであろうと、泥棒がめっこを入れていたのでしょうか。宿からわずかの代償をもらい、どうにか帰宅して護符を配ったのでした。

数年後、代参が決まって、名張から八木経由で京都に。数時間かかって山を登り、本社に祈祷を終え、京都駅に着きました。駅は人々で混雑していました。土地不案内の二人は迷いつつも、八木行きの電車を教えてもらい、急いで飛び乗りました。程なく車掌の検札で、山陰線の八木とまちがえていることを知り、困り果てました。止むなく車掌に教えられたとおり、福知山から大阪に出て、上六を経由し、最終電車でようやく着きました。

弥次喜多道中まがいのほんとうの話です。

釜淵

名張川の中峰山領、昔「大川の渡し」があった所から、100mほどの上流に釜淵という深い淵があります。その淵の中に大きな岩があり、その真ん中に直径2mほどの丸い穴が開いているので釜淵と言っています。

昔の言い伝えに、天王様(神波多神社祭神)が出てこられた壺だといいます。
大変不気味な淵なので、だれもその壺に入ったものはないといいます。

kamabuti昔、天王と伊賀の予野の子どもたちが魚釣りをしていると、釜壺の方で白い霧がもうもうと立ちのぼりました。なにごとが起こったのかと、たがいに恐れながらじっと見ていると、たちまち白い衣を着た白髪の老人があらわれました。子どもたちは大変ふしぎになり、子ども心にも「神様か」と思って、たがいに迎えようとしました。すると老人が言うのには「お前たち一度家に帰り、ふたたびここへおいで。私は早く来た者の方へ行くことにしよう」と。

予野と天王の子どもたちは、一生懸命に走って帰り、ふたたび走って来ましたが、天王の子どもが先に着きました。そこで天王の子どもたちは、草刈りの山朸(※)2本の上に老人をのせてかついで帰りました。これが中峰山に鎮座まします神波多神社の祭神だったのであります。

老人をかついだ朸は今も残っていて、子どもたちがかついで帰る時「マジャラク、マジャラク」と言ったので、毎年の祭礼の時「まじゃらく」という行事が行われるのだといわれています。

※朸(おうこ)・・・物を担う棒。てんびん棒。

喜七郎騒動

江戸時代の中ごろから終わりにかけて、奥田の殿様の下で、地頭・井ノ上代官と対決した藤田喜七郎の物語です。

kisitirousoudou当時はどこの村も、年貢米の取り立てがきびしく、山年貢、柿年貢と、柿にまで年貢が掛けられ、これがほとんど井ノ上代官の懐に入っていたといい、年貢が払えない百姓は、遂に江戸奉公に出た者もあったのでした。
藤田喜七郎は庄屋でもあり、みずから犠牲にしても“村人のために・・・”と直訴(殿様にじかにお願いすること)を考えていました。
ある時、江戸の殿様が大西の井ノ上代官の所へ来るのを待ち構え、苦しい年貢を直訴したのです。当時、土下座で殿様を迎える百姓が、直訴することは大変な罪でした。

喜七郎はその場で捕らえられ、牢に入れられましたが、牢番が酒を飲んで眠ってしまった際、これ幸いと、牢を抜け出したのでした。また、ある時喜七郎は、新しく田を作って米の増産を計ろうと、水路を引いて(今の井出脇から上津の集会所あたりまで)田地を開く“工事願い”を代官所に申し出ました。
ところが、半年たっても梨のつぶてで、何の音沙汰もありません。しびれを切らした喜七郎は、許可がなければ「おれ一人で叱られよう」と、自分の費用で村人を集めて工事を行いました。これが代官の耳に入り、彼は門外不出、蟄居閉門を命ぜられたのです。2、3日は辛抱していた喜七郎でしたが、いたたまれず、また村人を集めて工事を始めてしまいました。
代官は大変怒り、その晩不意に15、6人の捕り手を差し出し、喜七郎の家を取り囲んでしまいました。代官としては、何回もいうことの聞かない彼を亡き者にしようとしたのです。

喜七郎は、家の者に別れを告げ、表門の方へ「ただいま出所します」と男衆に呼ばせておき、自分は家宝の一刀を腰に裏口より出て、とびついてきた捕り手を斬り倒し裏山へ逃げたのでした。

物語は、牢をぬけ出したことと、家の裏口から逃げたことまでで、それ以外ははっきり分からないが、遅瀬の元谷家や尾山の三学院、果ては奈良の有名な円照寺(俗に言う、山村御殿)へ辿り着き、匿われたといいます。その後、喜七郎は永い逃亡生活のため、病を得て尼様の厚い手当を受けたが、その甲斐もなく円照寺で亡くなったとか、また村へ帰ってから亡くなったとか、そのあたりも定かではありません。

後になって、井ノ上代官は江戸へもどされ、川上代官を迎えますが、悪代官から、やさしい代官に代わって村人のよろこびは、ひとしおでした。
このころから、江戸時代の封建社会がたるんできて、やがて明治の世があけるのです。
藤田家には、「月菖道蕃居士」という喜七郎の墓が建てられていて、今も井出脇の用水路を見おろしています。
大字広代には、江戸役人から喜七郎を「不届者」とした書状が残されています。

子洗いのお大師さん

天理~上野線の旧県道(今は国道25号線)、切幡と小倉の境界近くにお大師さんの祠があります。これが昔から由緒のある「子洗いのお大師さん」なのです。

koarainoodaisisan昔、弘法大師さんが旅の途中、ここにさしかかられた時、池の付近で、ひとりの婦人が産気づき苦しんでいました。
弘法大師は念仏を唱えながら、無事赤子をとり上げられ、この池で産湯をつかわされたといいます。
またこんな話も残されています。
お大師さんがこの池の付近で腰を降ろし、昼食をされました。弁当を広げられたが箸がありません。困ってあたりを見ると一本の柳の木がありました。
歩み寄られたお大師さんが頭を下げて「箸をわすれて困っています。痛いだろうが、わたしに恵んで下され」と一枝折って、それを箸にして弁当を食べられたのです。
食べたあと、池の水で柳の箸を清め、その箸に、ていねいにお礼を言って池の縁に挿しておかれました。

お大師さんのお礼言が天に通じたのか、逆さに挿された柳の箸が根づいて次第に大柳となり、それからずっとこの池を守り、道行く人々に親しまれてきたのです。この大柳も、寄る年なみのため枯れて、今はその二世となっています。