京原の都

寒さがやわらいでやっと春らしくなったある日のこと、お天子様があちこちの村々を回られたあげく、ひょっこりと毛原の里へお出でになりました。

kiyouharanomiyakoこの里は、蓮の花びらのような形をした山々に取り囲まれていて、なんとなく落ち着いついた感じがします。また、里の真ん中を西から東へと一筋のきれいな川が流れており、その北側には家々がきちんと南向きに立ち並んでいます。
一方、川の南には平地があって、そこには早くも麦が青々と伸び、菜の花が咲きみだれ、かわいい小鳥のさえずりさえ聞こえてきます。まったく春の初めとも思えないほどの暖かな日差しを一ぱい浴びて、人々は楽しそうに仕事に励んでいました。

しばらく立ちどまって、こののどかな景色をご覧になっていた天子様は「まあ、なんという平和で住み心地のよさそうな所だろう。その上、都を造るのに一番かっこうのよい姿になっているではないか。そうだ、わしはここを都ときめて住むことにしよう」とおっしゃいました。お天子様をお迎えした村人たちは、「ほんとうにありがたいこっちゃ」とたいへん喜んで、都造りに力を合わせました。

そんなわけで、見る見るうちにりっぱなご殿やお役所ができましたし、でっかいお寺も建てられました。また、飲み水がいちばん大事だというので、深い井戸も掘られましたが、そこからは顔が映るほどのきれいな水がこんこんと湧きました。『お天子様の御井や』と言うので、たちまち世間の評判になりました。そのうち、国ぐにから大ぜいの人たちがあつまってきて、すっかり都が整いました。静かな里に住み慣れていた人びとは、咲く花の匂うような栄える村の姿を見て、生きる幸せを存分に味わったことは言うまでもありません。それから、だれ言うともなく、毛原を京原と呼ぶようになったのです。

こうして平和な日々が何年も続きましたが、ある日のこと、お天子様がお亡くなりになりました。
村人たちは悲しみに包まれながら、天子様が朝夕大へん愛しておられた茶臼山へ、その亡きがらを葬ったのでした。
それからは、はなやかだった京原の都も夢のように消えて、また元の静かな毛原の里にもどったと、村では伝えられています。

(付記)

本文の『天子の御井』は、後世「山辺の御井」として万葉の歌に詠まれ、脚光を浴びることになったとも伝えられています。