カテゴリー別アーカイブ: 村の語りべ

源太夫奮戦記

江戸時代、上津に中西源太夫という鉄砲の名人がいました。主君、奥田三河守の配下として、大阪夏の陣に出陣して、河内の国、片山の合戦に参加した時のことでありました。

gendayu敵将、後藤又兵衛は大軍をもって布陣。味方の軍はすでに浮足立って苦戦の時、源太夫は、敵の大将さえ討ち取れば、味方の勝利につながると思い、又兵衛を探しましたが混戦の中でなかなか見つかりません。
そのうち、雑兵の中央にただ一人、他の武者より見事な鎧兜を着けて采配をふるっていた武将があり、これが名高い後藤又兵衛だったのです。この人は武芸に勝れ、中でも槍を取ると天下に並ぶ者はないという達人で、彼に槍を持たせていたら、片山の戦はどちらが勝ったかしれない、とまで言われたほどの人でした。
その又兵衛を見つけた源太夫は、この時とばかりに日頃の手慣れの鉄砲に十匁玉を込め、神仏に祈りつつ引き金を引くと立ち込める硝煙の向こうに、又兵衛の倒れる姿が見えました。奥田勢はこの時一斉に突入、敵味方入り混じりの戦いの中で、奥田三河守もまた、壮絶な討ち死にをされたのです。

のち、中西源太夫は徳川方に大変ほめられ、多くの恩賞にあずかったといいます。中西家の家紋は、それ以来、“丸に的”になったと言われています。彼はまた、討ち取った敵の将兵の霊をとむらうために専念したとも聞きます。

今でも中西家では、村の放生会の日に“中西の阿弥陀寺会式”を行い、多くの亡き人たちの供養をされています。
源太夫が晩年のこと、腕だめしのため、自宅から数百メートル離れた街道の、岩の上に止まる雀を鉄砲で撃って、見事に目をつらぬいた話も有名です。

つちのこの話

当地方で言う五八寸(ごはっすん)あるいはごん蛇(ごんじゃ)とは、つちのこのことかと思われる。つちのこに出会ったという人は、日本の各地にあるようだが、そのつちのこなる動物を捕獲しようと山狩りなどをしても、絶対姿を現したことがないということである。ではその幻の動物とでもいうべき、つちのこの当地での話。

◎暗谷のごん蛇(五八寸)

北野から大塩へ通じる県道の中ほどに、暗谷橋があります。そこを流れる暗谷川は、神野山の中腹に源を発し、渓谷を経てオイセ川に注ぎますが、この暗谷という所は、昔はうっそうと樹木が茂り、昼なお暗いところでした。
この暗谷には、昔からごん蛇(または五八寸)が住んでいると伝えられています。
ごん蛇は坂を転がるときの形が直径約5寸、長さが約8寸だから「五八寸」と言うのだと思います。「五八寸」が坂を下るときは、頭を中に体を丸くして、コロコロ転げ降りるそうです。反対に坂を上るときや、平地においては、蛇と同じように歩行すると言います。昔の人はこの暗谷で、よく五八寸の転がるのを見たそうです。

tutinoko◎カンノ谷のしんぐりまくり

村道津越~牛ヶ峰線の途中に、カンノ谷という所があります。昔はこの谷を横切って、狭い急な坂道が通じており、樹木が覆い茂って昼でも薄暗い所で、谷筋の道端にはきれいな泉が湧いていました。
子供は年寄りから「カンノ谷はしんぐりまくりが出るから、日が暮れると怖い 」とよく脅かされました。しんぐりまくりが、泉の水を飲むため、上の山から転げ降りてくるというだけのことですが、薄気味の悪い話で、この道を一人で通るときは、息せき切って坂をかけ上がるのでした。

しんぐりというのは、腰に吊り下げる竹編みの容器で、農作業のときの種もの入れや、釣人の小魚入れなどに使われているものの名称です。直径5寸、深さ8寸ぐらいの大きさが標準でした。また、まくりというのは「まくる―転がす」という意味です。
そんなしんぐりが、山から転げ下りてくる。転がしているのは一体何ものだろう、というところに怖さが潜んでいます。物体であるしんぐりが勝手に転がるはずもなく詮じ詰めれば、しんぐりの形に似た何ものかが、転がり降りてくるということになります。そこで思い当たるのが、暗谷の五八寸(ごん蛇)と同じ動物が、このカンノ谷にも生息していたということになります。

◇今もしんぐりまくりはいるの?

この谷を通りかかったある人が道端で立ち小便をしました。天を仰いで、気持ちよく小水を放出しておりましたが、ふと、ものの気配を感じて横を見ると、蛇のようで蛇でもない黒い生きものが、2mほど先の所を、スーッと音も無く茂みの中に入って行きました。
いまだかつて見たことのない変な動物でしたので、その人はびっくりして、友達の所へ行ってその話をしましたが、「狸でも見たのやろ」と言って友達は取り合ってくれませんでした。勢いよく落下する小水の音を泉の音と勘違いしたしんぐりまくりが思わずでて来たのかもしれません。

後日、その話を聞いた人が時折その場所へ行って水を流してみるのですが、まだしんぐりまくりに会うことができずにいるそうです。一度は姿を見せても、次のときには探しても姿を現すことのないつちのことは、やっぱり幻の動物なのでしょうか。

押し合い橋

国道25号線(旧県道)切幡の村はずれの小川に、押し合い橋(現在は暗渠)があるが、それが両村の境界になっています。昔、三ヶ谷と切幡の境界争いがあって、両村が相談した結果「両村の庄屋さんが、同じ朝“一番どり”が鳴いたら村を出発して、落ち合ったところをさいめん(境界)にしよう」と話がまとまりました。

osiaibasi◎三ヶ谷の伝え

当日、両庄屋さんの出会った所が切幡の神明神社の近くであったそうな。そこはいかにも切幡よりのため、切幡村はもっと三ヶ谷寄りにするように願うが、三ヶ谷村も譲らず、あっちこっちと押し合いの末、最後に決まった小川の橋が「押し合い橋」と名づけられました。
伝承によると、三ヶ谷村は鶏に餌を与えないでその朝を待ち、切幡村の鶏は満腹でその日になったとか。空腹の鶏は餌欲しさに朝早く鳴いたので、村の出発が早かったのだと言われています。

◎切幡の伝え

当日、“一番どり”が鳴いたので、三ヶ谷の庄屋さんが、切幡に向かって来ましたが、いくら歩いても切幡の庄屋さんに出会いません。とうとう切幡の村まで来てしましました。そこへようやく切幡の庄屋さんがねむい目をこすりながらやって来ました。切幡の庄屋さんは、ついうっかり寝過ごしてしまったのです。
「これは大変だ。こんな村の真ん中が境界になると、村の人達から何を言われるかわからない」と、三ヶ谷の庄屋さんに、何とか彼とか言いながら、ようやく村はずれの小川の橋の所まで押し返してしましました。そこで、この地名になったのだとか。

であい(出会い)

的野の氏神さん、八幡神社の近くに「デアイ」という地名の所があります。

deai昔、的野と、隣接する現在の奈良市水間町との村境が定かでなかったころ、両方の村人の間ではいろいろと争いが絶えず、両村は不仲になって久しく縁組もなかったそうです。そこで、争い事のもとになる境界の取り決めに、よい方法はないものかと思案のあげく、一つのよい案を考え出しました。
それは、朝、山からお日様が顔を出すと同時に両方の村から総代さんが出発して、出会った所を村境にする、ということでした。決められた日、両方の総代さんは、日の出と同時に出発しましたが、的野は谷底の村で日の出が遅かったせいか、村を出発してほどなく、水間の総代さんと出会いました。それから後、こうして出会った場所を「デアイ(出会い)」と呼ぶようになりました。

しかし、「デアイ」はあまりにも的野に近すぎたため、水間の総代さんに後ずさりしてもらって、現在の村境に話は落ちついたそうです。
今から考えてみると、少しこっけいな話ですが、時計や地図のなかった昔のことですから、そうだったのかも知れませんね。

きつねの「イトエさんとサタローさん」

今の的野の下萩の境目から下深川にぬける岩坂峠の山の中には、だれが名づけたか、「イトエさんとサタローさん」という2ひきのきつねが住んでいました。人なつっこい2ひきのきつねは、岩坂峠を人が行き来するたびに、夜、昼なしに「のぅーっ」と顔を出すので、近所の人はみな、「イトエさんとサタローさん」の名前も存在もよくよく知っていました。

明治18年(1885年)ころ、奈良別所の浦西カメさんが20歳で的野のデヤの今西家に嫁ぎ、夏も近づく八十八夜の茶摘みの時のお話・・・。
kitune昔の茶摘みといえば、絣のはっぴにすげの笠、赤いたすきをかけたきれいな“摘み娘さん”たちが、10人も20人も茶山に出かけます。
岩坂峠の「中平」という茶山は広くて、一週間以上も茶摘みにかかったそうです。その中平へ茶摘みに行くと、まだ明るいというのに、「イトエさんとサタローさん」がどめきに出てきます。どうやら、べっぴんさんの若い“摘み娘さん”たちがけなるいらしく、男前の“茶師さん”のかっこうに化けてどめきにくるのです。時には、2ひきが“摘み娘さん”の気をひこうと、茶山のへりに腰をおろして一服します。こんなふうに中平の茶摘みが終わるまで、毎夕きまって「イトエさんとサタローさん」は何かしらどめきに来たそうです。“摘み娘さん”たちは、そんなきつね姿を見てもたいしてこわがりもせず「ああ、またイトエさんとサタローさんきらったわ」と言いながら、せわしく茶摘みをしたのだそうです。

昭和の初めになっても、となり南伝一郎さんが、岩坂峠を通って深川田へ行くのに、弁当をかたげて出かけると、弁当に油あげが入っている日は、必ず、2ひきのきつねがゴソゴソ、ゴソゴソと笹やぶをかきわけてついてくるのだそうです。それでも、ついてくるだけで、だまし取ったり、悪さをしたということは決してありませんでした。

平成の現在、あたりの山々は開パイ事業やゴルフ場建設で開発されましたが、岩坂峠の奥には、「イトエさんとサタローさん」か、はたまたその子孫か、2ひきのきつねがひっそりとくらしていて、忘れそうになるころ「のうーっ」と顔を見せるのだそうです。

大垣内の美女とその子

昔から、天守山のふもとに十数戸の集落があった。これが菅生の草分けの地“大垣内”なんや。
ここに、すばらしく美しい娘が育っておった。時々天守山城にお成りのお殿様に聞こえぬはずがない。やがて召されて、お殿様のお嫁さんになった。

ogettenobijoさて、そのお嫁さん、お腹が大きなってきたころ、おならはずしはったらしい。「ブウー」とな。すると、お殿さん「いてらん、いね」って追い出してしまわはった。いんでから、お嫁さんに赤ん坊が生まれた。赤ん坊はすくすく育って、よっぽど大きくなったころ、「お母さん、みんなだれでもお父はんあるのに、私にはお父はんあらへん、どういうわけや」ちゅうて母親に聞いたらしい。お母さんは返事に困ったけど、思い切って話してやらはった。「恥ずかしい話やけど、お前がお腹にいる時にな、おならはずしてしもて、それで追い出されてしもたんや」-と。

それを聞いた子は、「そうですか…、そんならわし、ちょっと明日から…。お弁(弁当)炊いて下さい」と言うと、次の日、どこへやら出かけて行ったそうな。殿様の屋敷近くでは、「屁の種いりまへんかぁー、屁の種いりまへんかぁー、屁の種売りますー」と、毎日さけび歩く者があるんじゃと。そのうちお殿様の耳に入って、「もしや、これは吾子では…。吾子に間違いない」と勘付かはったらしい。

そこで、その子を呼んでお殿様は、「五万石やるから下がれ」とおっしゃったそうな。しかしその子は返事をしない。お殿様はまた「五万石やるから下がれ」とくり返し三回おっしゃった時、「はい、ありがとうございます」ちゅうたと。
いよいよ五万石の金子をお殿様がやろうとしゃっはったら、「ちょっと待って下さい。お殿さんちゅうもんは、一言はっちゃ言わんもんなのに、三言もおっしゃった。よって、三、五、十五万石もらわななりまへん」と言って聞かない。
あんじょう理屈に詰まってしもうて、十五万石もらい、そしてお殿さんの座におさまったんじゃと。

大力人与門太夫

ずっと昔からこの地に、腰越の竹倉の森と、対岸峰寺領内の天王の森の白藤が生い茂り、両方から伸びた蔓が絡み合う時、「神と人間の中間にある大力人があらわれる」という言い伝えがありました。

dairikinin何百年か前、蔓の絡み合いがあって、大力与門太夫が誕生したのです。これから、与門太夫の大力ぶりをお話ししましょう。与門太夫が隣村桃香野へ夜遊びに行き、村の若い衆とけんかをした帰り、石の橋三枚をめくり上げ、一荷にして持ち帰り、深江橋の上にひとりで抱え渡したのです。
今の唐戸橋の位置で、神業のような大力。桃香野から、橋の石を返すよう迫ってきた時、ほしかったら持って帰れと言い返したが、残念ながら重くて持ち帰ることができなかったそうです。
明治の中ごろ、橋の改良から橋の石がいらなくなったので、峰寺の人々が総出で綱をつけて曳きながら、峰寺の神社前の小川の橋に架けかえたのでした。石は一本の長さ約3メートル、幅約45センチメートルほどで、重さは1トンはあります。

ある時、青竹8束を担いで奈良へ買い物に行きました。桐山の尻打坂まで行った時、上から西上のおばあさんが、「与門太夫さん、奈良へ行くのやったら、小豆8斗を売って、塩を買ってきておくれ」と頼みました。与門太夫は、小豆8斗の袋を竹の上にのせて歩きました。
春日山を9分どおり下った所に休み場があって、若い衆が大勢相撲を取っていました。肩の荷をおろして相撲を見物していましたが、おもしろくて、つい大笑いしてしましました。若い衆は不機嫌になって、「笑うのであれば、相撲を取ってみよ、見せてもらうで」と言ったので、「よーし」と立ち上がり、担いできた青竹の太いのを引き抜いて、親指と人差し指でパーシ、パーシと竹の節を押しつぶし、その竹でまわしを締めて「さあ、こい」と土俵に立ちました。
若い衆で相手になる者はなく「春日奥山の天狗さんが出た」と急いで散って行ってしまったのです。それ以来、春日山の相撲はなくなったとのことです。竹倉の姓の起こりとも伝えられます。
あずかった小豆を売って、その代金で買った塩は、西上の家へ持っていったのですが、表の縁にドンとおろしたところ、大量の塩が重たくて縁が落ちたと言います。

ある時薪柴がなくなったので、朝、暗いうちに起きて家を出たところ、鎌の柄と思って、石臼の挽木を腰に差して行き、仕方なく挽木を斧と鎌のかわりに使って、柴をたたきちぎって家へ持って帰りました。その量は門いっぱいに山のように積まれたと言います。
昔の道は歩くだけの広さで、荷車も通らず、馬の背に荷物を振り分けて運んだのです。川には簡単な板橋しかなく、雨が降れば板橋が流されました。そんな時、与門太夫は馬の背に荷物を積んだまま、馬の両足4本を抱き上げて、らくらくと向こう岸へ渡したと言います。

大字松尾、瑞徳家の周辺は昔からの竹林でした。茶園にするため、与門太夫に請け負ってもらったのですが、毎日毎日ドンドをして仕事をしません。「与門太夫さん、いつ仕事をはじめてくれますか」と尋ねたところ、与門太夫は早速と竹薮へ入り、片っぱしから竹を抱きかかえて根っこから引き抜いていったので、開墾はまことに早く見事に完成したのでした。

唐戸橋から腰越へ向かう100メートルの所に、与門太夫の風呂場跡があります。焚口の柱石、笠石が自然石で組まれています。
与門太夫が世を去る時、「わしのことは歴史に残さないで、後に力士があらわれてくるから、その者を留めよ」と言い残したそうです。

その後村人たちは、大力持ちの出現を恐れて両方の森を切りはらったので、大力人は与門太夫だけで終わったのでした。
当地にはフジノミ(藤の実)、藤本、石橋などの地名や家名が残っていて、当時のようすをわずかに伝えています。

淵に沈んだ釣り鐘

毛原の里を流れる川を笠間川と言います。その川筋に「鐘ヶ淵」という深い淵があります。そしてそこには急な山が迫っていますが、その山の頂には、むかし古い鐘楼が建っていたので、そこを「カネツキドウ」と呼んでいます。

さて、むかしむかしのある晩のこと、どうしたはずみかその鐘楼がこわれて、吊るしてあった大きな釣り鐘が、“どすん”と大きな音をたてて落ち、ごろごろころげて鐘ヶ淵に沈んでしまいました。futinisizundaturiganeところがこの淵には、昔から長い間住みついていた不思議な竜がおりました。この竜は、水の中ではこわいものなしで、たいへん威張っていました。だから、気に入らないことがあると、すぐ腹を立て、洪水を起こして田畑や橋を流したり、時には、家や人の命までもうばってしまうほどの乱暴者だったのです。
でも、この暴れん坊には、ただひとつの頭のあがらない怖いものがあったのです。それは鉄などの金物でした。
ちょうど真夜中のことだったので、ぐっすり寝こんでいた竜の枕元へ、突然だいきらいな釣り鐘がどしーんと飛び込んできたものですから、さあ大変。竜はあわてて、命からがら逃げました。川の下流に「権蛇淵」という淵がありますが、ここで蛇の姿に変身して、しばらくの間岩の穴にひそんでいたのです。
ところがそこは、同じ川筋なので、いつまた恐ろしい釣り鐘が追っかけて来るかもしれません。びくびくしながら思案の末、いっそうのこと高い山から天に昇ろうと決心しました。幸いにも、川のすぐそばには青葉の山々が迫っていて、大昔に噴火した「茶臼山」がそびえています。そしてその山からも、谷伝いに水が流れています。
「よしっ」と決心した竜は、水を伝って上へ上へと登りました。途中で少し疲れたので休みました。そこを今も蛇谷と呼んでいます。休んでは登り、休んでは登り、竜はとうとう山の頂上まで逃げのびました。
不思議なことに、山のてっぺんからは赤い火が噴いて、黒い煙がいきおいよく立ち上っているではありませんか。竜は大喜びで、その煙に乗って天に昇って行きました。

ところで淵に沈んだ釣り鐘はどうなったでしょうか。あれから何千年たったかはしれませんが、今もそのまま鐘ヶ淵の底深く沈んでいるそうです。きっと鐘楼がこわれてなくなってしまったので、帰るところがないからなのでしょう。
そして不思議なことに、この鐘は、闇夜の晩に限って、ときどき淵の底からうなることがあるそうです。そんな時には、必ずこの地方に、何かよくないことが起きると言い伝えられています。

大師の硯石

神野山から大塩へ下る麓に4メートル四方の大岩があって、岩の上の20センチメートルぐらいの凹みに水がたまっています。この水はあふれることなく、全くなくなりもせず、いつも同じようにたまっています。

daisinosuzuriisiむかし、弘法大師が北野村から神野山へ登られる時、この村の人たちが道案内をしました。
大岩の所で弘法大師が村人に言いました。
「何か困っていることはないかのう」
「はい、ここは山奥で、塩がないので困っています」
「それでは塩が出るようにしてやろう」
お大師さんは念仏を唱えながら、持っていた杖で大岩を二、三度ポンポンとたたきました。するとポコッと穴が開いて、中から塩水が湧いてきました。お大師さんは、塩水から取った塩を村人にわけあたえられました。
「この水は一日に何べんも増えたり減ったりするぞ。この水加減で、伊勢の海の潮の満ち干がわかる。また人の生き死にもわかるだろう」と言われました。

それから今日まで、大石の水は絶えたことがありません。岩が硯石のかっこうをしているので、村の人は大師の硯石と言って水を見ています。山添村の「大塩」という地名もそれから起こったと言います。
このあたり一帯に、むかしは岩塩が出たのかもしれません。近くに塩瀬地蔵が祀られているのも何かの縁だろうと言われています。

王塚伝記

その昔、神代の時代に「熯之速日命(ひのはやひのみこと)」という女神が伊勢に住んでおられました。多くの女神の中でもとびぬけて美しい女神であったので、男の神々が恋い慕い、われもわれもとつきまとったのです。
oudukadenkiあまり多くの男神に慕われた「ひのはやひのみこと」は、とてもみんなの好意にこたえられないと思い、ひとりこっそりと我が身をかくそうと、伊勢から熊野を通って、吉野の山中に住まいを定められたのでした。

女神を慕う男の神々は、どこまでもあとを追い、探しもとめてはつきまとったのです。思いあまった女神は、さらに北へ進み、大和は神野山の弁天池のほとりにひっそりと住まわれたのでした。
これで安心と思われた女神でしたが、男の神々の思いはおさまらず、われもわれもと女神を追い求めて神野山めがけてかけつけました。
たまりかねた女神は、その目をのがれようと一匹のオロチになられたのです。

女神を慕って、山また山を越えて来た男の神々の目の前に横たわる一匹のオロチ。これがあの美しい「ひのはやひの女神」とは、さすがの神々も思いもよらず、「おのれ行く手を邪魔するにっくきオロチめ」と、それぞれの剣をもってしとめてしまいました。するとオロチは、見る見るうちに美しい女神の傷ついた姿にかわり、弁天池の澄んだ水の中にその身を横たえたのでありました。

男の神々は、その痛ましい姿を見て涙の涸れるまで泣き明かしました。そして我が恋が実らず、その思いが女神をこんな姿にしてしまったことを悔い、なげき悲しみつつ、神野山山頂に女神の墓を造り、お祀りしたのでした。山頂の王塚にはこんな悲しい話が秘められているのです。
そしてまた、山一面に咲く紅つつじは、清らかな女神の色であるとも言われています。