カテゴリー別アーカイブ: 村の語りべ

天狗のけんか

昔、神野山は、天狗が住んでいる杉の木が一本生えているだけで、禿げ山だったそうです。一方、伊賀の国にある青葉山は、緑が豊かで、たくさんの草木が生い茂り、その間に奇岩もたくさんあって「庭園」のようだったそうです。
そして、神野山と青葉山には、それぞれ天狗が住んでいて、互いにたいそう仲が悪かったようで、いつもけんかばかりしていたそうです。

tengunokenkaあるとき、二人の天狗は、ささいなことから、物を投げ合うけんかを始めたそうで、青葉山の天狗はたいへん怒って、草木や岩を手当たり次第に神野山へ投げてきたそうです。
けんかが終って見ると、青葉山はもとの草木や岩がなくなり、禿げ山となって、神野山は飛んできた岩で鍋倉渓ができて、山の頂上に至るまで草木が生い茂るようになりました。
そして、九十八夜のころになると、つつじの花が、山頂に咲きみだれるようになったそうです。

鍋倉渓の親の顔

大和と伊賀の国境近くに神野山があります。そんなに高くないが、こんもりとした松と、つつじがいっぱいの山で、その山の東北のふもとの所に鍋倉渓があります。

めずらしい谷で、600メートルにわたり、谷いちめん真っ黒い大きな岩がるいるいと重なり合ってつらなっています。その岩の下には、かなりの水が川になり、石にぶつかっていて、水の音は聞こえますが、水はちっとも見えません。伏流水なのです。ところが、その真ん中どころにある平べったい石に腹ばって下をのぞくと、きれいな水が流れていて、じっと見つめると、死んだ親の顔がはっきり見られるというのです。それも正直な人だけに見えるのだと言われます。どうしてそんな伝えが起こったのでしょうか。

nabekuradaninooyanokaoむかし、この近くの村に、年寄りの父親と、若い息子が住んでいました。
家が貧しかったので、若い男は山しごとや畑しごとにやとわれたり、奈良の町へ使い走りを頼まれたりしてくらしていました。まじめで、正直で、うらおもてがなくよく働いたので、村人の受けもよく、とくに奈良の町への使い走りをよく頼まれました。
はやくて、まちがいがなく、相手の手紙や荷物をとどけてくれると、頼み手はよろこんで、駄ちんをはずんでくれたそうな。
そんな時、若い男は、奈良の店やのおいしいものを買ってきて、自分は食べず「おっ父、腹いっぱい食べや」と言って食べさせるのでした。

親せきはなく、身寄りといえば父親ひとりきりのせいもあるが、とてもやさしく、父親を大事にして、夜は足をもんだりしていました。
「すまんのう」と言う親に、
「なに言うとんね、おっ父、元気になぁ」と言うのでした。
村人たちは「今どきめずらしい親孝行で、感心な男や」とほめていました。

ところがある時、その大事な父親が風邪で寝込んでしまい、目に見えて弱ってきたのです。
心配のあまり若い男は、毎日薬を奈良の店で買ってきて、父親に飲ませました。そして鍋倉渓の石の上にすわって、東からあがる月をおがみ「おっ父の病気をなおして下さいませ」とお祈りをするのでした。
しかし、その甲斐もなく父親は、はかなく死んでしまいました。
若い男のなげきは大変なものでした。村人たちは見かねて「もう年やから、あきらめるよりほかない」と、なぐさめましたが、死んだ父親を思い出すとじっとしていられず、そのたびごとに鍋倉渓へやってきては、平べったい石の上にすわって涙ぐんでいました。

ある月の夜、石の上で若い男はたまりかねて、
「おっ父、今、どこで、どないしとるんや、会いたいのう」と大きな声を出しました。そうしたら、すわっていた平べったい石がぐらっとゆらいだのです。思わず石の上に腹ばいになって、何気なく、底に流れる澄みきった水を眺めた男は、突然「おっ父、おっ父よ」とうれしそうに叫んだのです。
なんと、にっこりほほえんだ父親の顔が、水の中にありありと見えたのでした。

これが「鍋倉渓の親の顔」の伝えの始まりです。

嫁取り神

的野と、松尾や峰寺の「押谷」を結ぶ一本の山道があります。現在は広い道路が別の場所につけられ、車の利用も多くなったのでこの山道はほとんど使われていません。山道と言っても、旧東山村が山添村になるまでは、村人が役場等へ用事でいく場合はもちろんのこと、大字間の往来に、また学校、保育園への子供の通学に、なくてはならない重要な道路でありました。

yometorigamiその道程の中程に「嫁取り神」という所があります。そのあたりは、道の両脇に大木がうっそうと茂っていて、昼でもほの暗い、薄気味悪いような所です。子供がそこを通る時には、恐ろしさを感じて、一目散に走り抜けていました。

その昔「嫁入り」がここを通った時、お嫁さんが突然何物かにさらわれて、消え失せてしまうという恐ろしいことが起こったそうです。

それから後、村人はそこを「嫁取り神」と呼ぶようになり、同じことが二度と起きることを恐れて、まわり道をしてお嫁入りしたそうです。

しんぐりまくり

村の中央の高いところに、八王子神社があります。「助命(ぜみょう)の村に過ぎたるものは宮の社段か、般若の倉か、尚も与平治の道楽か」と唄われたとおり、100メートル余りもある高い石段があり、下からお社を見上げると、ずいぶん高い所にあってその周囲をこんもりとした森がかこんでいます。

singurimakuri大正の初めまでは、直径1メートル余りもある大きい杉や松がありましたが、台風で倒れたり、松喰い虫の被害や、古損木となったりして、今はそんな大木ではありませんが、それでも森の森厳さは保たれて神々しいお宮さんです。
その昔、この石段には、時おり夕方になると、「しんぐりまくり」というあやしい者が来て、しんぐりをまくる(ころがす)ことがあるといって恐れられていました。
「しんぐり」とは、竹で編んで魚を入れるかごで、魚取りにはなくてはならないものです。そのしんぐりの中には、いたずら小僧が入れられていると言うのです。
こんなしんぐりに入れられて、高い石段からころがされると、どんなになってしまうのか、わかりきったことです。
そこでこの地方では、子どもがいたずらをすると、「それ、また、しんぐりまくりがやってくるぞ」と言っておどかしますから、子どもはおとなしくなるというのです。

絵からぬけだす牛

むかし、中峰山にたどりついた、一人の見なれない絵師がありました。みすぼらしい絵師は、一夜の露をしのぐ宿さえ求めかねて、ただ一人暗い影をふんで松瀬の渡を渡り、天王寺のうねり坂を登って来たのです。

ekaranukedasuusi彼は今夜も、またさびしい一夜を送らねばならないのかと、絵筆の包みをどっかと草葉の上におろし、石に腰かけて、西の山にかたむく夕陽に向かってため息をつきました。
山寺から打ち出す鐘の音がゴーン、ゴーンとひびくと、旅絵師は急に元気づいたように歩き出しました。お寺に頼んでゆっくり眠ろうと、老松のさし出した山門に立った彼は、一夜の宿を頼みましたが、どこでもそうだったように「名も知らぬ人に絵なんか書いてもらうことはできない」とあっさりとことわられました。やっと再三のねがいが聞きとどけられて、一晩だけ泊めてもらうことになったのは、それから半刻もたってからのことでした。

諸国行脚の絵師は、老僧にさし出されたダンゴに舌づつみを打って、冷たい寝床につきました。けれども、何をお礼に書き残そうかとばかり思うのでした。翌日になっても絵師は帰ろうとしないで、もう一日、もう一日といいつつ、十日あまりは夢の間に過ぎ去りました。

村人たちは、「居候のにせ絵師や」とうわさしました。
ある夜のこと、絵師はひとり絵筆をたずさえて、さびしい神波多神社の境内をそぞろ歩きしていましたが、何を感じたのか、神殿のうらにまわって、半時も白壁に向かって坐禅を組んだのです。初秋の月はこうこうと輝いて、杉の間から絵師を照らしていました。やがて人の寝静まった丑満のころ、一気に力強く鮮やかに描き出したのは、たくましい一頭の牛でした。

その翌日、絵師はだまってどこへとなく立ち去って行きました。
黄ばんだ稲がぼつぼつと刈り取り始められて、田のあぜにはいくつもの稲架が作られました。ところが数日後、稲架の穂は、片っぱしから何者かに、むざんにもぎとられました。
日ごとに荒らされていく田はふえるばかりで、天王、遅瀬、広代、春日ととなり村まで波紋が広がりました。そこで村人は、方々で焚火をして不寝番を設けることにしました。

おそろしい怪物が稲田を食い荒らしているのを、村の少女によって発見され「稲盗人がいるぞ」との知らせに驚いた村人たちは、手に手に鎌や鍬を持ってかけつけました。やがて神社のうらに追いつめられた怪物の正体をみとどけると、それは一頭の雄牛でした。あの絵師が描いた絵牛が、夜な夜な抜け出して、稲田を食い荒らしていたのです。
そこで村人は、旅の絵師をさがしに八方で走りました。やっと伊賀の上野でさがしあてた村人は、絵師をつれ戻して、牛のかたわらに松を一本書きそえ、綱でつないでもらったのです。

その後、稲田は荒らされることもなく、今も絵牛は黙々と立っています。やがてこの絵師は、そのころ有名な狩野法眼元信だということがわかりました。

嫁のはらいた

日暮れがた、夕飯たきをしていたお嫁さんが、急にしんどなったんで、姑さんが「こら、えらえらいこっちゃ、早う菅生のお医者さん呼びに行かにゃ」と外へ出てしばらく山道を歩いて行きゃった。
yomenoharaitaそしたら向こうからその菅生のお医者さんが来やはるやないか。姑さんはよろこんで「先生、ええとこへ来てくれやってんて、今、うちの嫁のしんどいのわかりゃってんな」と先生に言やった。
先生はひとことも返事せずに、どんどん、どんどん先に行きゃんので、後をついて行きゃったら、先生が先に行って、それから先、見えやんようになって、あたりを見るとなんと方向ちがいの「玉阪の峠(たまさかのとうげ)」まで来てやってんと。
こんな所へ、なんで来てんやらと思って、いっぺん家へかえりゃったら、嫁のしんどいのもなおって、夕飯たきをしてくれとったんやって。姑さんは、「あの先生はきつねさんやってんやろか」と何がなにやらわからんようになったとさ。

他惣治天狗

鍋倉渓の誕生って・・・
むかーしのお話。すばしっこくてあらっぽいことが大好きな男の子。その名は他惣治。毎日暇を見つけては神野山へ登って「えいえい」と岩や木をたたきわって遊んでいたそうな。その声は伊賀の山々まで聞こえるほどの元気者。
tasojitenguある日、「ええ根性の子がおるじゃないか。わしの弟子として仕込んじゃろう。」と思った伊賀の青天狗は、声をかけた。
「おーい、そこの子供よ。おれは伊賀の青天狗じゃが、弟子になる気はないかえ。」
谷から山からおんおんと響く天狗の声を聞いてびっくりしたのは、神野山の赤天狗。
「こらあ。何を言うんじゃ。あの子はわしが前から目をつけてた子じゃ。お前には渡さんぞ。」
「やかましい。先に言ったのはわしじゃ。」
とうとう喧嘩をはじめた神野山の赤天狗と伊賀の青天狗。言い合いだけでなく、伊賀の青天狗が山の岩を放ってくるまでの争いに・・・
そのうち岩は神野山からごろんごろんと下の山に落ちるようになってきた。見ていた他惣治は心配になり、「えらいこっちゃ、岩が転げたらどうしよう。やめてくれよう。」とどなったが、青天狗はやめなかったんだと。
そうしているうちに、伊賀の山は、岩をひきおこし木はひっくりかえり、穴ぼこだらけとなり・・・。
「やめてくれよう。」とさけんだ他惣治に赤天狗が言った。
「心配いらん、岩が村に落ちることないがな。けど、そんなに気になるなら、わしの術で、あんな岩ぐらいとめてやろう。」
きりっと伊賀の方をにらむと、岩はぱたりと飛んでこなくなった。
「どうじゃ、伊賀の青天狗。お前んとこはとうとうはげ山になってしもうたがな。あっはっはっ。」
「さあ、他惣治。今日からわしが天狗の術を教えてやろう。よいか。」
「はい、頼みます。」こうして他惣治は神野山の赤天狗の弟子となったそうじゃ。
それから、熱心な他惣治は、じきに天狗とび切りの術を覚えて、村へと帰っていったそうな。

鍋倉渓のあの多くの黒い岩。伊賀の青天狗が放ったものが集まってできたものやと伝えられておるそうじゃ。

「カッコウ」って、なぜ鳴くの

むかし、ずっと昔のことやでー。
kaakouお母さんが、子供たちに「背中、かいてんかー。」と言ったけれど、泥だらけ、汗だらけの背中なんで、とてもイヤだったのだろう。子供たちは「イヤやあ」と言ったそうな。「たのむ、たのむさかいに、かいてよ。しんぼうでけへんのや。」ともう一回たのんだけれど、子供たちは知らんふりして「わあっ」と遊びに行ってしもうた。

困り果てたお母さんが見渡したら、一枚の「むしろ」が目についたと。「これや、これでええのや。」と、地べたに「むしろ」をひろげて、その上に寝っ転がって、ゴシゴシと背中をかいたそうな。

なんと気持ちのいいことだろう。何回もゴシゴシやっていたからだろうか。ふと気がついて、背中に手を伸ばしてみると、”ぬるっ”と血がにじんでいた。
こすり合ってめくりあがった背中の皮のすき間から「バイキン」が入ったのだろう、見る見るうちに、背中がふうせんのようにふくれあがってしもうた。
やがてそのふうせんがつぶれると同時に、お母さんは亡くなってしもうた。あまりにも悲しい出来事ではないか、子供たちはワンワンと泣きじゃくったそうな。

夕方になると、毎日お母さんのことを思いだしては、「お母さん、ごめんね、背中かくよう」
「かくよ、かこう、かこ、かこ・・・」「かっこ、かっこ、カッコウ、カッコウ」
澄みきった秋の夕暮れ、子供たちの叫びのように、カッコウ鳥が鳴くんやてー・・・。