源太夫奮戦記

江戸時代、上津に中西源太夫という鉄砲の名人がいました。主君、奥田三河守の配下として、大阪夏の陣に出陣して、河内の国、片山の合戦に参加した時のことでありました。

gendayu敵将、後藤又兵衛は大軍をもって布陣。味方の軍はすでに浮足立って苦戦の時、源太夫は、敵の大将さえ討ち取れば、味方の勝利につながると思い、又兵衛を探しましたが混戦の中でなかなか見つかりません。
そのうち、雑兵の中央にただ一人、他の武者より見事な鎧兜を着けて采配をふるっていた武将があり、これが名高い後藤又兵衛だったのです。この人は武芸に勝れ、中でも槍を取ると天下に並ぶ者はないという達人で、彼に槍を持たせていたら、片山の戦はどちらが勝ったかしれない、とまで言われたほどの人でした。
その又兵衛を見つけた源太夫は、この時とばかりに日頃の手慣れの鉄砲に十匁玉を込め、神仏に祈りつつ引き金を引くと立ち込める硝煙の向こうに、又兵衛の倒れる姿が見えました。奥田勢はこの時一斉に突入、敵味方入り混じりの戦いの中で、奥田三河守もまた、壮絶な討ち死にをされたのです。

のち、中西源太夫は徳川方に大変ほめられ、多くの恩賞にあずかったといいます。中西家の家紋は、それ以来、“丸に的”になったと言われています。彼はまた、討ち取った敵の将兵の霊をとむらうために専念したとも聞きます。

今でも中西家では、村の放生会の日に“中西の阿弥陀寺会式”を行い、多くの亡き人たちの供養をされています。
源太夫が晩年のこと、腕だめしのため、自宅から数百メートル離れた街道の、岩の上に止まる雀を鉄砲で撃って、見事に目をつらぬいた話も有名です。