下ん堂の山崩れと水害

村の北西、「天守山」から「城が尾」にかけて、北を背に南向きの日溜まりや急な斜面に、八戸の家が重なるように建っている。この小場を”鍛冶屋出(カンジャデ)”という。
秋になると、よく県道のあたりから子どもたちが写生をしているが、石垣やジンド柱や急な坂の道など特徴のある風景は、郷土出身の画家が油絵にして入選してから人気があるらしい。

下ん堂は”鍛冶屋出”の祠堂で、谷出川と小場の前を流れる堂坂川の合流地点。村でも最も低い北の出入り口にあって、村を守護しているかのように、川を背に道に向かって建っていた。
堂内には、子安観音菩薩石像二基が安置されているので、別名下ん堂のことを観音さんと呼んでいる。
この観音さん、時々真っ赤な腹帯を巻いておられる。安産の仏様として大変ご利益があるとかで、お参りする人が多い。

村人が子どものころからなじんできた下ん堂と、隣の民家(森中宅)が大災害に見舞われたのは、大正六年(一九一七)十月二日、今から七九年前のことであった。
お堂と茶店を兼ねた民家は、正面の山崩れと谷出川の増水とで、家屋は土砂に埋まり全半壊。森中の家族のうち、二人は家の下敷きとなって圧死、二人は流されて水死した。村にとっては、未曾有の人災を伴う災害として今に語りつがれている。

当時のことを飯田イトエさん(九十三歳)はこう語っている。

わしはその時、十五歳で、家の仕事の手伝いをしていた。九月の末、バケツでぶっちゃけたような雨が続くので、村の人々は心配しながらも、ちょうど晩秋蚕の上族の真っ最中やったんで、なんどころやなかった。十月二日の日は珍しく雨がやんだんで、お父っつぁんは村の「籠り」を休んで、風呂場の下の土手のくえたのをなおしてやった。
夕方五時ごろ、親類の加太の亀(亀治郎)さんが、「籠りの帰りや。つね(常治郎)は籠りを休んだことないのに、どうやらとおもて見舞いに来たら、そんなことしとったんか」と坂道を上がってきゃった。

scanいつもならゆっくりとしゃる亀さん、一服茶を飲んで「おれも朝、出たなりで、うちのこと心配やさけ帰るわ。お前とこ高いさけ、用心せえよ」と言い置いて帰っていきゃった。その後亀さん、なにやら胸さわぎがして森中の家へ立ち寄りゃったげな。

森中家では、床下が水につかったので、母親が忙しそうに片づけをしてやった。川の水は石垣を越えて、お堂と店の庭を浸している様子を見て、「おまえとこも、えらいこっちゃのう」と亀さん。「どうやらのう。心配やわえ。まあお茶でも出すさけ・・・」と母親は茶を入れようとすると、亀さんは、「お母さん、それどころやないで、長雨であちこちくえとる。水も引きそうにない。中尾の裏がくえたら、お前とこも一ぺんに埋まる。はよ、子ども起こしてこちへ来い」とせき立てた。「亀さん、ほんまにすまんのう。兄がおらへんし、頼りにならんもんばっかりで・・・。そう言ってくれりゃ、あまえさしてもらうわ」と、すぐに障子戸をあけて、姉キクノと弟の鉄治郎を起こして「あぶないさけ、はよ亀さんについていけ」と言い、奥の納戸で寝ている子どもの辰雄に「辰、起きろよ!」と、蚊帳を持ち上げた時、頭上でドドドドド、ギギギーと重苦しい屋根にのしかかるような物音がした。と、思ったとたんに家がゆれて柱や建具が倒れかかった。

亀さん必死になって、明かりのする川の上の窓から、「お前ら、おれについてこいよ」というと同時に川に飛びこんだ。亀さんは濁流で足をすくわれ、無意識に犬かきをしながら田の方に流される。気がついたら中南の田の後毛の稲束を握っていたという。「鉄は続いて窓から出たと思うが、あの濁流では、とても助けられるような状況ではなかった」と後から亀さんは言っていた。

飯田シズコさん(八十五歳)も、その時のことを次のように話す。

わしとこも、蚕上げやった。夕方、非常呼集のラッパが鳴った。何やらっとあわてて外に出てみると、”大井戸のあたりで、下ん堂さんと森中が埋まったげな”と呼び合う声が聞こえた。程なく、消防さんが何人も法被を着て、スコップなどを肩に、走って下られる姿が見えた。
あとで、森中の家族が生き埋めになっていると聞いて、驚いたのを覚えている。
亀さんの知らせで救助活動が初められたが、大量の土砂と川の増水がおさまらないので手がつけられない。消防団は、ひとまず本部を坂本の茶小屋に置いて、天王の駐在所に連絡して指示を受けることにした。
巡査がかけつけた時は、もう暗くて作業は困難なため、本格的な救助復旧活動は、翌日夜明けとともに行うことになった。

その晩、山の中腹にある飯田のつねさんとこの、家の裏手の漆谷の竹藪が、谷底の川や田を飛びこして、数百㍍先の、向かいの尾山の山裾と、水田との境にへばりつくように落下していた。谷間を落ちて行った跡は全くなかったので”どんねんして飛んで行ったんやら”と人々を不思議がらせた。
早朝から救助作業が始まって、最初に掘り出された遺体は姉のキクノであった。倒れた家の戸の隙間から片手が出て、水の中でフラフラと白く動いて、生きているように見えたという。
母は奥の間の仕切りで、辰雄の蚊帳をひっぱるようにして圧死していた。その奥で辰雄は、仏壇と柱の間で蚊帳に巻かれたまま、虫の息でいるところを奇跡的に助け出された。
鉄治郎を捜すのは困難を極めた。濁流と流木で、どこまで流されたのか皆目見当がつかない。そんな中、多くの村人が捜しに加わり、やっと四㎞も下流の大谷の岩場で、流木の間にひっかかっているのが見いだされたのはもう午後であった。三人の遺体は、棺に納められて、山の神の前の莚の上に並べられた。
奈良の連帯に現役で入隊中の兄の宇一郎にも知らされて、中隊長の特別許可を得て帰郷した時には、棺が並べられた直後であった。兄は、人前もはばからず男泣きに泣きくずれ、周囲の人々も、あまりのいたましさにもらい泣きしたという。
葬儀は、親受けである峰出の森中家で営まれた。残された末弟の辰雄は親類へあずけられ、下ん堂の森中の家は廃屋として取り除かれた。屋敷はいつしかお堂の庭になり、川端の石垣の上に、さるすべりの美しい花が遺霊をなぐさめるかのように咲いた。