筒井順慶と岩屋のお宮さん

天正八年(一五八二)に伊賀の乱が起こりました。全国統一を目指す織田信長は、大和の国守筒井順慶に命じて、伊賀を討たせたのです。
小泉の居城を発った順慶は、笠間峠から伊賀の柏原へ進み、一軍は上笠間より笠間川沿いに岩屋を通り、伊賀の薦生に進みました。

一説には、勝原より峠を越えて岩屋に向かう際に、谷に矢を射かけて進んだので、”矢下ロシ”の地名ができたともいわれています。

薦生へ進んだ順慶軍は、薦生の郷士武田、副野、福広軍の強い抵抗に遭い、止むなく退いて、平瀬の犬飼堂に陣し、八王寺社(今の八柱神社)に戦勝祈願をしました。
まず清らかな不動の滝で身をきよめ、戦士一同の槍を社前の椋の木に立てかけて必勝を祈ったのです。その椋の木を、それから「槍立ての椋」、又は「鉾立ての椋」と呼ぶようになりました。
こうして順慶軍は、岩屋の郷士を加えて軍を立て直し、破竹の勢いを持って攻め入り、遂に伊賀の国を平定しました。

ここにおいて順慶は、八王寺社の霊験に感謝し、それ以後たびたび八王子社に参詣して、天正十年には金品を社殿に捧げ、新しい神殿が造られました。
また境内、不動の滝のそばにある一基の石灯籠は、順慶の伊賀攻めに従軍して戦死した、岩屋郷土の九十回忌の供養のために建てられたものとして「寛文十二年八月五日奉為供養 氏人」と記されています。

tutuijyunkeiこのような由緒ある氏神を持ったことを村人は誇りとして、灯明を絶やさず、毎日勤務の宮守さんを交代で選んで、管理と祈りに励んでいます。
また、正月には、除夜の鐘が鳴り終わるのを待って、村人は競って氏神さん詣でに出かけます。お互いに新年の挨拶を交わしながら社前に進み、一年のお祈りを捧げ、そのあとで宮守さんからお神酒を頂戴します。また、子どもたちはお年玉とキャラメルをもらいます。
不動の滝には、滝壺の清水で額を冷やすと頭がよくなると言い伝えられ、その仕草をします。

どんなに時代が変わろうとも、村人の敬神の念は変わることなく、またご神体も、岩屋の里の鎮守の神として、永遠に鎮座ましますことでありましょう(村指定文化財)。