高僧「智龍」さん

scan-2大正の初めに刊行された『山辺郡誌』に、毛原長久寺の様子を「規模ノ大ナル一見驚クニ足ル」と書いてあります。これは他のお寺と比べてみて、びっくりするほど大きく立派だという意味なのです。

ところで、このような姿は元からあったものではなく、明治7年(1874)住職に就かれた『宝山智龍』というお坊さんのお力によることは今さら言うまでもありません。

和尚は天保12年(1841)羽前国(今の山形県)に生まれ、名を『遠藤富蔵』と言いました。遠藤家は代々大庄屋でしたが、幕末のころ各藩の争いに巻き込まれて、すっかり貧しくなりました。富蔵はまだ幼い子供でしたが、家の暮らしを助けるために、他所の家の仕事を手伝ったり、お寺に奉公にあがったりして、永い間大変苦労しました。
明治になって、時の政府は神を敬い仏を軽く見る方針をとったので、次第に衰えました。富蔵はこの時「今こそ仏教を盛んにして平和を取り戻し、みんなの暮らしをよくしなければ」と心に決め、明治2年大和国の初瀬寺へ入門しました。そこで仏教の勉強をするうちに弘法大師の素晴らしい徳に強く心をひかれるようになったのです。

初瀬寺での修業を終えた富蔵は、長久寺にありがたいお経の本があることを聞いてこの寺の住職となり、宝山智龍と名を改めました。明治13年のある日のこと、病気で寝ていた智龍さんの枕元に光輝く弘法大師の御姿が現れて、「本寺境内裏山ヲ開イテ仏法ノ興隆ニ一身ヲ捧ゲヨ」と励ましのお告げがありました。

それに感動した智龍さんは、すっかり病を忘れ、夜を日に次いでお寺の裏山に入り、精魂を傾けて霊場『大師山』を開きました。
この大師山には88体の大師石仏を始め、大師堂や大師夢想湯など数々の施設を整えましたので、人々からは大師信仰のありがたいお寺とされ「毛原のお大師さん」の名で親しまれるようになったのです。また、明治35年には、その偉業に感動された円照寺門跡伏見宮様から、有り難い『豊原山』の山号を頂くことになりました。

scan-3和尚はその他、地域の産業や社会教育の振興にも力を注ぎましたので、美しく輝くみ寺とともに、『高僧智龍』の名は広く世に伝わりました。大正5年(1916)76歳で亡くなりましたが、生前に残された数々のエピソードのうち、幾つかを次ぎに掲げて、和尚の人柄を偲ぶことにいたします。

  • 智龍さんは、なまりのある山形弁を話されたので、初めのうちは少し聞きづらい感じもしましたが、心根はまことに優しくて、だれにでもわけ隔てなく親しくされました。ただ弟子入りした小僧さんには、とても厳しい躾をされたようです。つまりその厳しさに耐えられないようでは、僧侶として仏に仕え世の人びとを救うことはできないというのが、和尚の教育方針だったのです。
  • ふだんは大ていお粗末な浅黄の衣を着て、掃除などをされていられたので、人々は「いつも大へんおしこりで」と話しかけると「お寺はなあ、仏様のいらっしゃる有り難い所やで、いつでもテラテラと照らし輝いているから寺と言うんじゃよ。住職という者はそんな大事な所を預かってるもんじゃから、精一杯体を使うてお寺の隅々まで、しっかり守るのが役目じゃ。だから座ってばかり居って、お経さえ唱えればおつとめ(勤行)がすんだと思うのは、大きな勘違いじゃよ」と言う答えが返るのでした。
  • 食事は決まって一汁一菜(一杯の汁に一皿のおかず)で、肉食は絶対にしませんでした。また暖かい蒲団が無かったので、厳しい冬は蚊帳を重ねて寒さをしのぐというように、大変徹底した粗衣粗食だったのです。なお和尚は生涯妻帯されませんでした。