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平成25年9月号 Vol.564

目次 ページ
決算報告 ほか 2〜5 2013.9
議会だより 6〜7
村議会議員選挙結果 ほか 8
人事行政の運営等の状況 9〜11
みんなの広場 12〜14
今月の情報 ほか 15〜20
川柳・俳句 ほか 21〜22

「牛の宮」の昔ばなし

scan-3広代に牛の宮と呼ばれる在所があります。古くから、天王さん(神波多神社)と深いつながりのある「牛の宮さん」が鎮座され、牛を連れてお参りする人が多く、その上、奈良・天理から伊賀上野、名張へ通じる街道筋で商売が繁盛して今日に至ったところです。

天文(一五三二)のころか、吉田で川を利用して、茶や生糸を大阪へ出していた吉住という家がありました。代々問屋と呼ばれるその家から、牛の宮の地に隠居して、吉住と名乗ったのがこの在所の始まりなのです。

吉住さんは、そのころの領主・奥田家や、代官から米を買って酒を造っていたので、酒屋と呼ばれるようになりました。
大正の中ごろまで、本宅や酒倉が並び、伊賀から来た五、六人の倉男たちが、にぎやかに働いていて、米を蒸して作ったひねり餅を、子どもたちがもらいに行ったそうです。たくさんの金子を上納することになり名字帯刀を許されていて、そこの女の人たちが遠出する時は、金襴の打掛けを着て、懐剣を差し、お駕籠で行ったそうです。

この吉住さんから次々隠居が生まれ、その隠居からまた隠居して次第に家が増え、みんな「吉住」と名乗りました。油屋あり、綿屋あり、シミセ(雑貨屋)あり、呉服屋ありで、お伊勢参りの休憩所として、天王参りの買い物場として栄えてきたのです。「丹波市(天理市)から上野までで、ひと所で何でも揃うのは牛の宮だけや」とも言われてきました。

油屋の吉住は、油と醤油を造って売っていました。数多くの、五寸に二尺の箱に、煮た豆をひと並べにして、それに麴をかけてむろに入れたものを、酒桶と同じくらい大きな桶に入れて醤油を造り、桶と桶の間には長い大きな渡り橋を渡してありました。
醤油屋の栄三郎という人は、朝起きの早い人で、大豆を大きな釜で焚きながら「何をするにも身を打ち込んで仕事をする良い男と女」の話をいつでもしてくれたものです。
昭和の中ごろまで、今の油重ストアから西側に、酒屋の本宅を利用して、波多野信用購買利用組合があって、後に波多野診療所になりました。

酒屋の隠居に神谷という家がありました。吉住と名乗るところを、その付近が“カミヤ”という地名だったので“神谷”と名乗り、銀行のないころの金融業を営みました。また、“鳥ヶ尻”というところに大きな水車小屋を造り、酒屋の酒米を搗いていました。神谷の上に“テンショ”というところがあります。奥田の殿様のトリデがあった所ともいう一〇㌃ほどの台地で、今は竹やぶになっているが、一尺ほど杭を打ち込むと、底には意思が敷きつめられていて刺せない。その台地の南下は四㍍ほどの石垣で、中ほどに縦二㍍、横一・五㍍ほどの穴があり、今から五〇年前は、三㍍ほど奥へ入れたが、今は入り口も土で埋まっていて、戦国の世の抜け穴だったのだろうと言われています。広代には門南橋があり、“テンショ”もあって、興味深い所です。

その隣の方に“ゼンノジョ”という所があります。寺があったのか、五輪塔や石碑がごろごろ転がっています。その下の柳ヶ瀬川の田の角に「赤井」と呼ばれる水が湧いている所がありました。多分寺の井戸だったのだろうということです。その下の方の平地はモチ屋(藤森良一)の旧宅跡で、その場所で藤森さんが餅屋を営んでいたそうで、それで今でも、藤森宅は“モチヤ”と呼ばれているのです。
その前は村道で、今の国道ができるまでは東西の交通の要路でした。

昔ある日、この道を通って、美しい娘がモチを買いに来て、それから毎日来るようになり、餅屋が大変繁盛しました。餅屋の主人は、見たこともないこんな美しい娘がどこの人やらと思い、後をつけて行くと、牛の宮の池の東の角に祠があって、その中にすうっと消えて行きました。そこで初めて、娘さんは弁天様であったことがわかりました。でも、それからは、ぷっつりと餅屋へこなくなり、店もあまりはやらなくなったそうです。
弁天様は今、天王さん(神波多神社)のうしろに小宮様として祀られています。

平成25年8月号 Vol.563

目次 ページ
就任にあたって 2〜3 2013.8
みんなの広場 4
今月の情報ほか 5〜8
川柳・俳句 ほか 9〜10

水にしいたげられる橋

mizunisiitagerareruhasi広瀨の道を曲がりくだると、名張川がゆるやかに流れ、近代的な鉄筋の大橋が見えてきます。この大橋がかかるまでは、長い間釣橋、そのまえは粗末な板橋でした。

ここは昔からの伊勢道で大川を舟で渡って名張、青山を越えて、伊勢まいりをする大事な所だったのです。
釣橋ができるまでは、「橋板まくり」の仕事がありました。川の流れを横切って、広瀬側から向こう岸にかけて、X字に組んだ杭が幾組もならんでいる。その上へ幅六〇㌢㍍、長さ三㍍の板がならべてある。宝珠もなければ欄干もない粗末な橋で、歩くとユラユラゆれて、よそ者には大変こわいが、広瀬の人は重荷をになって平気で渡ったのでした。

橋のたもとに見張り小屋があって、いつも水の量を見張っていました。急に大雨が降って水が増えると、半鐘を「ジャンジャン」鳴らして、村人に橋の危険なことを知らせるのです。
夏のころ、今まで晴れていた空が急に曇り出し、夕立がおそってくると、向こうの野山で働いている村人たちは、木陰や山小屋へ雨宿りをします。川は見る間に濁流となり、音を立てて流れます。水面から一㍍もない板橋は、みるみるうちに危険な状態になります。
半鐘の乱打に、村人はみな橋のたもとにかけつけ、若者たちはわれ先にと激流に飛び込んで、大事な板橋を次々にまくり上げるのです。高価な板橋を流すとそれこそ大変で、広瀬の人たちは、そのため日ごろから暮らしを切りつめ、貯金してそれに備えてきました。
「広瀬の村へは養子にやるな」このことばの中には橋の苦労がよくにじみ出ているのです。

この「橋板まくり」とともに、つぎのような物語が伝えられています。
昔、この村に美しい少女がおりました。名は「おふみ」といって、村の貧しい百姓の子でした。一六の春に、ある庄屋の家へ奉公に出ました。ご飯たきや機織りなどをいそがしくしているうちに、二年間は夢うつつの間に過ぎ去りました。
庄屋には権太夫という若者がおりました。おふみは権太夫から純情な愛を受けて、二人の心はかたく結ばれました。ところが権太夫の父は強情者であったので、二人の仲を聞いてたいそう怒り、おふみを家から追い出してしまいました。
家に追い返されたおふみは、片恋の身のやるせなく、ついに病の床につき、はては思いあまって、鵜山村の蜂ヶ巣淵の渦の中に身を投げて、はかなく命を絶ったのです。それからというものは、この場所になんべん橋をかけても大水で押し流されてしまうのだといいます。

平成25年7月号 Vol.562

目次 ページ
議会だよりほか 2〜5 2013.7
みんなの広場 6
今月の情報ほか 7〜13
山添の文化財ほか 14
川柳・俳句 ほか 15〜16

角兵衛さん

中之庄の南の端、三重県名張市と境する位置に馬尻山があります。

昔、この馬尻山の所有権をめぐって、伊賀の国と大和の国で争いが起こり、長い間紛糾したことがありました。その当時中之庄に「角兵衛さん」という人がおられて、この人が参謀格となり、紛争解決の衝に当たっておられました。
いろいろと話し合いを重ね、協議を重ねましたが解決の糸口は見つかりませんでした。さんざん苦心したあげくの果てに出た結論は、この争いの解決には、なんとしても大金が必要ということになりました。
ところが当時の村は貧困でとてもそんな大金はできなく、その調達にほとほと困り果てていました。そのとき、平素は大変な節約家であった善福院の一僧侶が、村のこの一大事を救おうと、ただちに箕に三杯の黄金を村になげだしました。そして「角兵衛さん」とともに、この大金を持って折衝に当たり、村の危急を救ったといわれています。

kaku角兵衛さんと善福院僧侶の偉業を、村人は永く後世に伝えようとして、角兵衛の墓の上に松の木を植え、「角兵衛松」と呼んで大切にしていましたが、先年の落雷によって枯死してしまいました。
善福院の僧侶の碑は、大寺跡に残っています。

平成25年6月号 Vol.561

目次 ページ
山添村長選挙 2 2013.6
みんなの広場 3〜5
今月の情報 ほか 6〜8
川柳・俳句 ほか 9〜10

平成25年5月号 Vol.560

目次 ページ
みんなの広場 2〜3 2013.5
今月の情報 ほか 4〜7
山添の文化財ほか 8
川柳・俳句 ほか 9〜10

平成25年4月号 Vol.559

目次 ページ
平成25年度予算について 2〜5 2013.4
議会だより 6〜9
みんなの広場 ほか 10〜11
今月の情報 ほか 12〜18
川柳・俳句 ほか 19〜20

筒井順慶と岩屋のお宮さん

天正八年(一五八二)に伊賀の乱が起こりました。全国統一を目指す織田信長は、大和の国守筒井順慶に命じて、伊賀を討たせたのです。
小泉の居城を発った順慶は、笠間峠から伊賀の柏原へ進み、一軍は上笠間より笠間川沿いに岩屋を通り、伊賀の薦生に進みました。

一説には、勝原より峠を越えて岩屋に向かう際に、谷に矢を射かけて進んだので、”矢下ロシ”の地名ができたともいわれています。

薦生へ進んだ順慶軍は、薦生の郷士武田、副野、福広軍の強い抵抗に遭い、止むなく退いて、平瀬の犬飼堂に陣し、八王寺社(今の八柱神社)に戦勝祈願をしました。
まず清らかな不動の滝で身をきよめ、戦士一同の槍を社前の椋の木に立てかけて必勝を祈ったのです。その椋の木を、それから「槍立ての椋」、又は「鉾立ての椋」と呼ぶようになりました。
こうして順慶軍は、岩屋の郷士を加えて軍を立て直し、破竹の勢いを持って攻め入り、遂に伊賀の国を平定しました。

ここにおいて順慶は、八王寺社の霊験に感謝し、それ以後たびたび八王子社に参詣して、天正十年には金品を社殿に捧げ、新しい神殿が造られました。
また境内、不動の滝のそばにある一基の石灯籠は、順慶の伊賀攻めに従軍して戦死した、岩屋郷土の九十回忌の供養のために建てられたものとして「寛文十二年八月五日奉為供養 氏人」と記されています。

tutuijyunkeiこのような由緒ある氏神を持ったことを村人は誇りとして、灯明を絶やさず、毎日勤務の宮守さんを交代で選んで、管理と祈りに励んでいます。
また、正月には、除夜の鐘が鳴り終わるのを待って、村人は競って氏神さん詣でに出かけます。お互いに新年の挨拶を交わしながら社前に進み、一年のお祈りを捧げ、そのあとで宮守さんからお神酒を頂戴します。また、子どもたちはお年玉とキャラメルをもらいます。
不動の滝には、滝壺の清水で額を冷やすと頭がよくなると言い伝えられ、その仕草をします。

どんなに時代が変わろうとも、村人の敬神の念は変わることなく、またご神体も、岩屋の里の鎮守の神として、永遠に鎮座ましますことでありましょう(村指定文化財)。