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平成26年2月号 Vol.569
掲載日付:2014年2月1日

掲載日付:2014年2月1日
掲載日付:2014年1月6日
伊賀の国境、名張川の渓谷に望んで、平和なくらしの村があります。吉田村がそれです。
ここの鎮守、岩尾神社の神様は、伊賀の国から「入婿」にこられたとの言い伝えがあります。もともと、このささやかな山里には、これという鎮守の神様もなく、ただ、春の女神を祀る名ばかりの小さな祠があっただけでした。
その昔、村人が寄り集まって一つの相談をしました。それは産土の神を勧請することでした。中には村人の信仰している明神様がいいと言うものもありました。神域は村の中央の丘の上で、日当たりのよい森の静かな所にところにきまりました。
大勢の村人たちは汗みどろになって奉仕しました。岩を割るもの、槌を振るうもの、木を削るもの、と仕事をして、新しい神殿ができ上がりました。さあ、いよいよ神様の勧請です。宮遷しの晩には、境内から参道まで人でうずまりました。神主はおごそかに祝詞をあげ、村人は一斉に拝礼しました。
この時、あやしい黒雲が伊賀の国境からおそってきて、神殿の上に覆いかかりました。村人がおどろいて見つめる中、黒雲は神域一帯を覆って真暗になり、木々をゆする風がひゅうひゅうとうなって、ごう音が天地にひびきわたりました。
村人はこれこそ真実の神様のお降りだと、おそれおののきながら合掌九拝しました。神主の祝詞が終わるころ、このふしぎな様子は消えさって、かがり火があかあかとあたりを照らしました。やがて正気に返った村人たちは、神殿の裏に、大きな石の長持一荷がおかれてあることに気付きました。
巨岩には、くっきりと十字架の白い筋が大きくついていました。これは長持をになったときに使った‘石だすき‘でした。休憩の際水を飲まれたらしい石の水鉢も残されていました。
これは、たしかに婿入りされたしるしでした。白だすきをかけた巨岩は、神様のご神体として、長持などの石とともに、今も村人たちに厚く崇拝されています(村指定文化財)。
掲載日付:2014年1月1日
掲載日付:2013年12月1日
中之庄には二体の地蔵菩薩が、昔からの伊勢街道に沿って祀られています。一体は子安地蔵さんといって、村の入り口で中峰山との境に、もう一体は吉田への出口のナシノキという地に嫁取り地蔵さんが、共に街道に向かって立っておられます。
この俗称“嫁取り地蔵”さんは、大きな岩に刻まれた磨崖仏(背丈約五〇㌢㍍と三五㌢㍍の二体)です。最初から二体の地蔵さんが彫られていたのではなく、初めは一体であったということです。
村の古くからの伝説によりますと、中之庄村へのお輿入れの行列が、この地蔵さんのある付近まで来ますと、突然お嫁さんの姿が消えてなくなるということが、続いて起こったということです。
そこで村の人たちが集まって、いろいろと話し合いました。その結果、このような嫁取りが起こるということは、お地蔵さんが独り者であるからだということになりました。
そこでこの独り者のお地蔵さんに、お嫁さんをもらってあげてはということになり、寂しく独り立っておられる横に、お嫁さんを一体追刻しました。そして、夫婦地蔵として供養することにしました。それからは嫁入りの行列が通っても、花嫁さんの姿が消えて無くなるということはなくなったということです。
今では、この、磨崖仏も風雪にさらされてそうとう摩滅していますが、よく見るとこの二体の仏の刻まれた年代は、確かに違うようです。
掲載日付:
掲載日付:2013年11月1日
毎年十月十四日を迎えると、十七戸の者が集まって「念仏講」を営んでいます。そこで、この講のいわれについて、丸山清重さんの祖父「松吉じいさん」が生前教えてくれたあらましを、まとめてみることにします。
この話は明治十年代のころにさかのぼりますが、ある日のこと、お遍路姿の旅僧がひょっこり丸山さんの家にやって来ました。よく聞くと、「伊賀の国猪田村の方で、たいへん徳の高い智龍和尚の教えを受けるために参ったが、その間宿をお世話ねがいたい」、とのことでした。
一見して礼儀正しく、信仰心の厚い人のように感じた松吉じいさんは、快く宿を引き受けました。
それから何日間か智龍和尚の許で熱心に修業を積まれた末、心に何か感じるものがあったのか、自然石に地蔵さんを刻み、お寺の隅に、自分のふる里の方へ向けて建てました。
いよいよ旅立ちの日がやってきて、旅僧はじいさんに申しました。
「長らくお世話になりましたが、これからまた旅を続けて修業を重ねたいと思います。しかし生きてる限り、いつ、どこで世を去らねばならぬかも知れません。たいへん厚かましいお願いですが、もし私が、死んだと聞かれたら、どうかこの地蔵碑の供養をおねがいしとうございます」
と言って、金三拾円をじいさんに預け、いずこへともなく立ち去りました。
その後、明治十九年の春になって、その旅僧は、長谷寺の近くで亡くなったとのしらせを受けました。
じいさんは旅僧の遺言どおり、この僧と関係があった人たちを集め、その年の十月十四日に「念仏講」を結成しました。そして、今も毎年その日に、みんなが地蔵碑の前に集まってお念仏を唱え、亡き旅僧の面影を偲びながら、弔うことにしています。
掲載日付:
掲載日付:2013年10月1日
毛原の東出にある「六地蔵」は大変古く、彫り方もすぐれているので、広く世に知られています。
昔、ある日のこと、どこからともなく旅僧がひょっこり現れて、毛原廃寺のそばに立ち止まりました。そして、あたりを見回しながらつぶやきました。
「これはまあ、何という廃れかただろう。それにしてもずいぶんと大きな伽藍跡じゃ。こんな見事なお寺を建てるからには、きっとたくさんの人たちが、長い間言い知れぬ苦労をしたに違いない。そうじゃ、ひとつお地蔵さんを刻んで、その人たちの霊を弔うことにしよう」
旅僧は早速身を清めて、大きな石に向かってお念仏を唱えながら、一晩のうちに六体の地蔵を彫り刻みました。これが今、四辻にある「六地蔵」なのです。
ところでこの場所は、大昔から車の時代に入るまでの長い間、村にとっては一番古くて大事な街道筋でした。そしてこの所は、廃寺の屋敷を避けて東西南北に交差しているので「四辻」の名がついたのでしょう。
さて、六地蔵のある所はたいていお墓の入り口なのですが、ここから墓までは大変離れています。そんなわけで昔ある日のこと、村の若い人があつまって、「六地蔵」をお墓の近くへ移すことにしました。なにぶん大きな一石地蔵なので、力の強い若い衆でさえ大変骨が折れましたが、その日の夕方にはやっとのことで、墓近くまで移すことができました。みんなはへとへとに疲れていましたが「できた、よかった」とはしゃぎながら、夜の更けるのを忘れてお酒を飲みました。
ところがどうしたことでしょう。東の空が白むころ、村中、にわかに変な病気が広がったのです。「これはえらいこっちゃ、なぜやろ」と大さわぎになりました。その時、村の長老が言いました。「皆の衆、よう聞け。これはお地蔵さんをわが等の都合で無理やりに動かした祟りじゃ。早う元の所へ戻さんと、村中一人残らず死んでしまおうぞ。」
「なるほどそのとおりだ。まことに申し訳ないことをした」というので、急いでお地蔵さまを元の四辻へ戻し、それぞれに供え物をして、お地蔵様におわびをしました。
一時はどうなることかと心配した恐ろしい病気も、うそのように無くなりました。それからはお地蔵様を動かしたことはなく、いつも花や水が供えられるようになりました。(村指定文化財)
掲載日付:
掲載日付:2013年9月1日
お大師さん(弘法大師空海)は、国内をくまなく回って人々の幸せの基を開かれた人で、そのおかげを受けない人はなかったと言われています。
天長二年(八二四)、お大師さんがこの地方を回られ、北野腰越の宝泉寺にお住まいになりました。ある夜、夢枕に大日如来様がお立ちになり、北の方の牛ヶ峰を指さして「仏教の根本の基を開く霊場とするように」とのお告げがありました。
牛ヶ峰の山は、その当時東大寺の杣山でした。大師はこの山に入り、岩窟の大岩に大日如来を刻みました。「のみ」と「つち」で大岩に仏の全身を彫りつけるのは大変なことです。毎日毎日コツコツと仕事を続け、その音が山々にひびきました。
こうして見事に仏を線刻された大師は「さて、こののみとつちをどこへしまおうかな」と考えられました。ちょうど真上に、表が板のように切りたった大岩がありました。「よし」とうなずいた大師は、その岩の上部に枡型の切れ目をつけ、岩を掘り取った中にのみとつちを納められたのです。
以来、下の岩窟を岩屋、上を枡型岩と呼ぶようになりました。
この二つの大岩は、もともと一つの岩だったのですが、いつのころか地面が大ゆれの時、真っ二つに裂けて一つが落ち、下のつっかい石の上に横たわったものだと言われています。
岩屋は神仏が溶けあった神道霊場として岩屋寺と呼ばれ、頭上の大日如来を本尊として、ほら穴の中に不動明王を、境内入り口に善女龍王を祀る修業の聖地となりました。戦を捨てた武士や、身内の不幸をなげく人々、あるいは山伏たちが救いを求めてこの山へ登って来ました。山の冷気と静けさの中で、ひたすら読経に溶け入ったのです。
岩屋寺から枡型岩へ登る参道には、中興の祖と呼ばれる空仙広祐が造った地蔵石仏(享保四年=一七一九)などがあります。空仙さんは人々の幸せを祈るため、自分から墓穴に入り二一日間鐘を鳴らして成仏したと伝えられており、その墓の上には弥勒菩薩が祀られ、地元ではそれをクスセンと呼んでいます。
天正のころ(一五七三~)、岩屋寺で修業に励む若い僧の姿がありました。名は宥海、伊賀の国、滝村の豪族、滝三河守保義の弟で、早くから仏門に入り、岩屋寺宥専和尚を慕ってここに来たのです。
天正七年九月、北畠信雄(織田信長の二男)は伊賀を攻め、滝村の七仏薬師院を焼きはらいました。三河守保義は懸命に迎え撃ちましたが、負けて戦死しました。
岩屋寺にあった宥海は兄の戦死を知り、故郷に帰って防備を固めました。天正九年(一五八一)織田信長は再び伊賀を攻め、四万五〇〇〇の軍勢が社寺を焼きはらい、伊賀の土豪はみな討ち死にしました。宥海は仏の加護で生き残り、牛ヶ峰に帰りましたが、師の宥専和尚はすでに他界して、師弟の再開はなりませんでした。
宥海は五輪塔を建てて師の菩提を弔っていましたが、天正十年十月、おもいがけなく信長が本能寺で明智光秀に殺されたのでした。安心した宥海は、故郷の滝村でお寺を継ぐことをきめ、岩屋寺にあった阿弥陀如来像や、弘法大師が唐から持ち帰ったという五鈷杵などを持って滝村へ帰り、七仏薬師院の跡に立派な滝仙寺を立てたのでした。
岩屋、枡型は開山以来、人々の霊場として広まったのですが、世の流れと、とくに明治元年(一八六八)の神仏分離令によって起きた廃仏棄釈の波により、荒れ果てるままとなりました。
降って明治二十五年(一八九三)九月、北野西村の人びとが枡型岩に足場を組んで、枡型を開き、一般に公開しました。それは弘法大師が岩屋の大日如来と、もう一か所奈良市丹生町のソガオ地蔵像を岩に彫る時、使ったと伝えられるのみとつちが枡型に納められてあるのを公開し、霊場を明らかにすることにありました。
この開扉の大法会によって、岩屋・枡型は広く世に知られるようになり、枡型大師・ソガオ地蔵の巡礼が流行したのでありました。
布目ダムの流れを真下に見下ろす牛ヶ峰の岩屋・枡型は今幾多の歴史の謎を秘めながら、村内外の人々が目を見張る探訪の地となっています。