喜七郎騒動

江戸時代の中ごろから終わりにかけて、奥田の殿様の下で、地頭・井ノ上代官と対決した藤田喜七郎の物語です。

kisitirousoudou当時はどこの村も、年貢米の取り立てがきびしく、山年貢、柿年貢と、柿にまで年貢が掛けられ、これがほとんど井ノ上代官の懐に入っていたといい、年貢が払えない百姓は、遂に江戸奉公に出た者もあったのでした。
藤田喜七郎は庄屋でもあり、みずから犠牲にしても“村人のために・・・”と直訴(殿様にじかにお願いすること)を考えていました。
ある時、江戸の殿様が大西の井ノ上代官の所へ来るのを待ち構え、苦しい年貢を直訴したのです。当時、土下座で殿様を迎える百姓が、直訴することは大変な罪でした。

喜七郎はその場で捕らえられ、牢に入れられましたが、牢番が酒を飲んで眠ってしまった際、これ幸いと、牢を抜け出したのでした。また、ある時喜七郎は、新しく田を作って米の増産を計ろうと、水路を引いて(今の井出脇から上津の集会所あたりまで)田地を開く“工事願い”を代官所に申し出ました。
ところが、半年たっても梨のつぶてで、何の音沙汰もありません。しびれを切らした喜七郎は、許可がなければ「おれ一人で叱られよう」と、自分の費用で村人を集めて工事を行いました。これが代官の耳に入り、彼は門外不出、蟄居閉門を命ぜられたのです。2、3日は辛抱していた喜七郎でしたが、いたたまれず、また村人を集めて工事を始めてしまいました。
代官は大変怒り、その晩不意に15、6人の捕り手を差し出し、喜七郎の家を取り囲んでしまいました。代官としては、何回もいうことの聞かない彼を亡き者にしようとしたのです。

喜七郎は、家の者に別れを告げ、表門の方へ「ただいま出所します」と男衆に呼ばせておき、自分は家宝の一刀を腰に裏口より出て、とびついてきた捕り手を斬り倒し裏山へ逃げたのでした。

物語は、牢をぬけ出したことと、家の裏口から逃げたことまでで、それ以外ははっきり分からないが、遅瀬の元谷家や尾山の三学院、果ては奈良の有名な円照寺(俗に言う、山村御殿)へ辿り着き、匿われたといいます。その後、喜七郎は永い逃亡生活のため、病を得て尼様の厚い手当を受けたが、その甲斐もなく円照寺で亡くなったとか、また村へ帰ってから亡くなったとか、そのあたりも定かではありません。

後になって、井ノ上代官は江戸へもどされ、川上代官を迎えますが、悪代官から、やさしい代官に代わって村人のよろこびは、ひとしおでした。
このころから、江戸時代の封建社会がたるんできて、やがて明治の世があけるのです。
藤田家には、「月菖道蕃居士」という喜七郎の墓が建てられていて、今も井出脇の用水路を見おろしています。
大字広代には、江戸役人から喜七郎を「不届者」とした書状が残されています。