きつねの「イトエさんとサタローさん」

今の的野の下萩の境目から下深川にぬける岩坂峠の山の中には、だれが名づけたか、「イトエさんとサタローさん」という2ひきのきつねが住んでいました。人なつっこい2ひきのきつねは、岩坂峠を人が行き来するたびに、夜、昼なしに「のぅーっ」と顔を出すので、近所の人はみな、「イトエさんとサタローさん」の名前も存在もよくよく知っていました。

明治18年(1885年)ころ、奈良別所の浦西カメさんが20歳で的野のデヤの今西家に嫁ぎ、夏も近づく八十八夜の茶摘みの時のお話・・・。
kitune昔の茶摘みといえば、絣のはっぴにすげの笠、赤いたすきをかけたきれいな“摘み娘さん”たちが、10人も20人も茶山に出かけます。
岩坂峠の「中平」という茶山は広くて、一週間以上も茶摘みにかかったそうです。その中平へ茶摘みに行くと、まだ明るいというのに、「イトエさんとサタローさん」がどめきに出てきます。どうやら、べっぴんさんの若い“摘み娘さん”たちがけなるいらしく、男前の“茶師さん”のかっこうに化けてどめきにくるのです。時には、2ひきが“摘み娘さん”の気をひこうと、茶山のへりに腰をおろして一服します。こんなふうに中平の茶摘みが終わるまで、毎夕きまって「イトエさんとサタローさん」は何かしらどめきに来たそうです。“摘み娘さん”たちは、そんなきつね姿を見てもたいしてこわがりもせず「ああ、またイトエさんとサタローさんきらったわ」と言いながら、せわしく茶摘みをしたのだそうです。

昭和の初めになっても、となり南伝一郎さんが、岩坂峠を通って深川田へ行くのに、弁当をかたげて出かけると、弁当に油あげが入っている日は、必ず、2ひきのきつねがゴソゴソ、ゴソゴソと笹やぶをかきわけてついてくるのだそうです。それでも、ついてくるだけで、だまし取ったり、悪さをしたということは決してありませんでした。

平成の現在、あたりの山々は開パイ事業やゴルフ場建設で開発されましたが、岩坂峠の奥には、「イトエさんとサタローさん」か、はたまたその子孫か、2ひきのきつねがひっそりとくらしていて、忘れそうになるころ「のうーっ」と顔を見せるのだそうです。