水にしいたげられる橋

mizunisiitagerareruhasi広瀨の道を曲がりくだると、名張川がゆるやかに流れ、近代的な鉄筋の大橋が見えてきます。この大橋がかかるまでは、長い間釣橋、そのまえは粗末な板橋でした。

ここは昔からの伊勢道で大川を舟で渡って名張、青山を越えて、伊勢まいりをする大事な所だったのです。
釣橋ができるまでは、「橋板まくり」の仕事がありました。川の流れを横切って、広瀬側から向こう岸にかけて、X字に組んだ杭が幾組もならんでいる。その上へ幅六〇㌢㍍、長さ三㍍の板がならべてある。宝珠もなければ欄干もない粗末な橋で、歩くとユラユラゆれて、よそ者には大変こわいが、広瀬の人は重荷をになって平気で渡ったのでした。

橋のたもとに見張り小屋があって、いつも水の量を見張っていました。急に大雨が降って水が増えると、半鐘を「ジャンジャン」鳴らして、村人に橋の危険なことを知らせるのです。
夏のころ、今まで晴れていた空が急に曇り出し、夕立がおそってくると、向こうの野山で働いている村人たちは、木陰や山小屋へ雨宿りをします。川は見る間に濁流となり、音を立てて流れます。水面から一㍍もない板橋は、みるみるうちに危険な状態になります。
半鐘の乱打に、村人はみな橋のたもとにかけつけ、若者たちはわれ先にと激流に飛び込んで、大事な板橋を次々にまくり上げるのです。高価な板橋を流すとそれこそ大変で、広瀬の人たちは、そのため日ごろから暮らしを切りつめ、貯金してそれに備えてきました。
「広瀬の村へは養子にやるな」このことばの中には橋の苦労がよくにじみ出ているのです。

この「橋板まくり」とともに、つぎのような物語が伝えられています。
昔、この村に美しい少女がおりました。名は「おふみ」といって、村の貧しい百姓の子でした。一六の春に、ある庄屋の家へ奉公に出ました。ご飯たきや機織りなどをいそがしくしているうちに、二年間は夢うつつの間に過ぎ去りました。
庄屋には権太夫という若者がおりました。おふみは権太夫から純情な愛を受けて、二人の心はかたく結ばれました。ところが権太夫の父は強情者であったので、二人の仲を聞いてたいそう怒り、おふみを家から追い出してしまいました。
家に追い返されたおふみは、片恋の身のやるせなく、ついに病の床につき、はては思いあまって、鵜山村の蜂ヶ巣淵の渦の中に身を投げて、はかなく命を絶ったのです。それからというものは、この場所になんべん橋をかけても大水で押し流されてしまうのだといいます。