「牛の宮」の昔ばなし

scan-3広代に牛の宮と呼ばれる在所があります。古くから、天王さん(神波多神社)と深いつながりのある「牛の宮さん」が鎮座され、牛を連れてお参りする人が多く、その上、奈良・天理から伊賀上野、名張へ通じる街道筋で商売が繁盛して今日に至ったところです。

天文(一五三二)のころか、吉田で川を利用して、茶や生糸を大阪へ出していた吉住という家がありました。代々問屋と呼ばれるその家から、牛の宮の地に隠居して、吉住と名乗ったのがこの在所の始まりなのです。

吉住さんは、そのころの領主・奥田家や、代官から米を買って酒を造っていたので、酒屋と呼ばれるようになりました。
大正の中ごろまで、本宅や酒倉が並び、伊賀から来た五、六人の倉男たちが、にぎやかに働いていて、米を蒸して作ったひねり餅を、子どもたちがもらいに行ったそうです。たくさんの金子を上納することになり名字帯刀を許されていて、そこの女の人たちが遠出する時は、金襴の打掛けを着て、懐剣を差し、お駕籠で行ったそうです。

この吉住さんから次々隠居が生まれ、その隠居からまた隠居して次第に家が増え、みんな「吉住」と名乗りました。油屋あり、綿屋あり、シミセ(雑貨屋)あり、呉服屋ありで、お伊勢参りの休憩所として、天王参りの買い物場として栄えてきたのです。「丹波市(天理市)から上野までで、ひと所で何でも揃うのは牛の宮だけや」とも言われてきました。

油屋の吉住は、油と醤油を造って売っていました。数多くの、五寸に二尺の箱に、煮た豆をひと並べにして、それに麴をかけてむろに入れたものを、酒桶と同じくらい大きな桶に入れて醤油を造り、桶と桶の間には長い大きな渡り橋を渡してありました。
醤油屋の栄三郎という人は、朝起きの早い人で、大豆を大きな釜で焚きながら「何をするにも身を打ち込んで仕事をする良い男と女」の話をいつでもしてくれたものです。
昭和の中ごろまで、今の油重ストアから西側に、酒屋の本宅を利用して、波多野信用購買利用組合があって、後に波多野診療所になりました。

酒屋の隠居に神谷という家がありました。吉住と名乗るところを、その付近が“カミヤ”という地名だったので“神谷”と名乗り、銀行のないころの金融業を営みました。また、“鳥ヶ尻”というところに大きな水車小屋を造り、酒屋の酒米を搗いていました。神谷の上に“テンショ”というところがあります。奥田の殿様のトリデがあった所ともいう一〇㌃ほどの台地で、今は竹やぶになっているが、一尺ほど杭を打ち込むと、底には意思が敷きつめられていて刺せない。その台地の南下は四㍍ほどの石垣で、中ほどに縦二㍍、横一・五㍍ほどの穴があり、今から五〇年前は、三㍍ほど奥へ入れたが、今は入り口も土で埋まっていて、戦国の世の抜け穴だったのだろうと言われています。広代には門南橋があり、“テンショ”もあって、興味深い所です。

その隣の方に“ゼンノジョ”という所があります。寺があったのか、五輪塔や石碑がごろごろ転がっています。その下の柳ヶ瀬川の田の角に「赤井」と呼ばれる水が湧いている所がありました。多分寺の井戸だったのだろうということです。その下の方の平地はモチ屋(藤森良一)の旧宅跡で、その場所で藤森さんが餅屋を営んでいたそうで、それで今でも、藤森宅は“モチヤ”と呼ばれているのです。
その前は村道で、今の国道ができるまでは東西の交通の要路でした。

昔ある日、この道を通って、美しい娘がモチを買いに来て、それから毎日来るようになり、餅屋が大変繁盛しました。餅屋の主人は、見たこともないこんな美しい娘がどこの人やらと思い、後をつけて行くと、牛の宮の池の東の角に祠があって、その中にすうっと消えて行きました。そこで初めて、娘さんは弁天様であったことがわかりました。でも、それからは、ぷっつりと餅屋へこなくなり、店もあまりはやらなくなったそうです。
弁天様は今、天王さん(神波多神社)のうしろに小宮様として祀られています。