旅僧が刻んだ地蔵

scan毎年十月十四日を迎えると、十七戸の者が集まって「念仏講」を営んでいます。そこで、この講のいわれについて、丸山清重さんの祖父「松吉じいさん」が生前教えてくれたあらましを、まとめてみることにします。

この話は明治十年代のころにさかのぼりますが、ある日のこと、お遍路姿の旅僧がひょっこり丸山さんの家にやって来ました。よく聞くと、「伊賀の国猪田村の方で、たいへん徳の高い智龍和尚の教えを受けるために参ったが、その間宿をお世話ねがいたい」、とのことでした。
一見して礼儀正しく、信仰心の厚い人のように感じた松吉じいさんは、快く宿を引き受けました。

それから何日間か智龍和尚の許で熱心に修業を積まれた末、心に何か感じるものがあったのか、自然石に地蔵さんを刻み、お寺の隅に、自分のふる里の方へ向けて建てました。

いよいよ旅立ちの日がやってきて、旅僧はじいさんに申しました。
「長らくお世話になりましたが、これからまた旅を続けて修業を重ねたいと思います。しかし生きてる限り、いつ、どこで世を去らねばならぬかも知れません。たいへん厚かましいお願いですが、もし私が、死んだと聞かれたら、どうかこの地蔵碑の供養をおねがいしとうございます」
と言って、金三拾円をじいさんに預け、いずこへともなく立ち去りました。

その後、明治十九年の春になって、その旅僧は、長谷寺の近くで亡くなったとのしらせを受けました。
じいさんは旅僧の遺言どおり、この僧と関係があった人たちを集め、その年の十月十四日に「念仏講」を結成しました。そして、今も毎年その日に、みんなが地蔵碑の前に集まってお念仏を唱え、亡き旅僧の面影を偲びながら、弔うことにしています。