遅瀬の大飢饉

scan-2天明(1781)のころ、遅瀬に大飢饉がありました。日照りが続いて米が穫れず、その上納める年貢が重かったのです。人々は食べる米もなく、木の実や草の根を食べて暮らしましたが、それもなくなり、今日、明日にも飢え死にの状態となりました。

五月川を越えた治田は、広い田が多く米もたくさん取れましたが、伊賀と大和は米の売買は許されていなかったのでした。
遅瀬の様子を見聞きした治田の大庄屋、市田惣兵衛さんは、青竹の節を抜いて米を詰め、何百本も遅瀬へ送ってくれました。
遅瀬の人々は泣いて感謝しました。お陰で遅瀬村はよみがえったのです。

文政(1826)のころ、また日照りが続き大飢饉起こりました。
この時、伊賀上野赤坂町の石川屋平吉さんは、遅瀬特産の「箕」を数多く買って大金を与えてくれました。一つの箕について2倍3倍の金を支払い、また「永久に遅瀬の箕を買います」と約束して、遅瀬の暮らしを救ったのでした。
村の中に田畑が少ない遅瀬にとって、特産の箕で急を救い、いつまでも箕を買ってもらえることは何物にもかえられないありがたい命の保証でした。

遅瀬ではこの二人のご恩を感謝するため、掛軸にことの由来を書きしるし、毎月村中でお礼の念仏をとなえるようになりました。市田念仏、石川屋念仏というのがそれで、今もお釈迦さん入滅の2月の日、村中で敬虔な祈りを捧げています。